真宗の死の作法を考える「資料集」(その1)

※ 研修の際に配布した関連資料です。参考程度にしかなりませんがご笑覧ください。(2017年11月16日 記)

 

<法式部研修会 配布資料 関係・参考資料編> 

() 「緒言」・「後記」(浄土真宗本願寺派葬儀規範集』)

① 緒言

 この勤式集は、本宗門のすべての人々にとって、つねに身近に出あう葬儀についての手引書である。葬儀は、人生最後の大切な別離の儀式であるから、厳粛に執行すべきである。

 葬儀は、故人に対する追善回向の仏事や、単なる告別の式ではなく、遺族・知友があいつどい、故人を追憶しながら、人生無常のことわりを聞法して、仏縁を深める報謝の仏事である。

 ことに、これを主宰する僧侶は、生死出ずべき道を自らに問い、威儀をととのえ、正規の勤式を実践して、衆目の範を示すべきである。全般の荘厳についても、いたずらに華美に流れず、清楚簡潔のうちにも荘重になすべきである。また、各地に行われている誤った風習や世俗の迷信にとらわれないように心がけねばならない。

 現在行われている本宗葬儀の勤式は、第八代蓮如宗主の葬儀次第に準拠し、伝承されてきたものであり、他宗派で言う、引導をわたすことではない。

あくまでも、道俗ともに、念仏読誦して故人を偲び、これを縁として、仏恩報謝の懇念と、哀悼の意を表す儀式である。

② 後記

 本宗派では、昭和五十七年四月以来、宗門発展計画の一部門に「法式調査研究委員会」が設置され、法要儀式の現代化について審議を重ねてきた。この委員会の重点目標の一つとして、生涯聞法に関連する儀式についての調査研究をつづけ、すでに帰敬式を改正し実行し、ついで葬儀の改正に着手して、一年有余にわたり十数回の会合をひらいて、ようやくこの『葬儀の規範および勤式集』を編集し、出版するにいたった。

 このたびの改定の特徴をあげると、左の通りである。

一、各勤行の意義を簡明にした。

  1. 各勤行の際の荘厳も、基本的なものをあげて図示した。
  2. 各勤行の次第についても、依用の経典、和讃、回向をあげ、譜を付した。
  3. 御文章については「白骨章」ばかりでなく、その他適当に選択して拝読するようにした。

一、「納棺尊号」や「おかみそり」は、地方によってさまざまに行われているが、一応宗義に則したものを例示した。

一、葬場勤行に「表白」を依用することにしたが、依用に際し、故人の遺徳などを適宜加筆してよい。

一、葬場勤行の和讃については、男女ともに同じ御文に統一し、二首目の讃頭も読むことに改めた。

一、中陰法要・納骨と墓・百か日法要についても、その意義と次第を例示した。

 以上、いずれも本宗派の葬儀を執行するにあたって、もっとも基本となる事項を例示したもので、僧侶・門信徒を問わず、ことあるごにこれを披見して活用されたい。

法式調査研究委員会

勤 式 指 導 所

() 『ブッダ最後の旅』~大バリニバーナ経~ 

① 「病い重し」『ブッダ最後の旅』(岩波文庫版 P173)

 「尊い方よ。修行完成者のご遺体に対して、われわれはどのうようにしたらよいのでようか?」

「アーナンダよ。お前たちは修行完成者の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ。正しい目的を実行せよ。正しい目的に向かって怠らず、勤め、専念しておれ、アーナンダよ。王族の賢者たち、バラモンの賢者、資産者の賢者たちで、修行完成者(如来)に対して浄らかな信をいだいている人々がいる。かれらが、修行完成者の遺骨の崇拝をなすであろう。」

尊い方よ、しかし修行完成者のご遺体に対して、われわれはどのように処理したらよいのでしょうか?」・「アーナンダよ。世界を支配する帝王(転輪聖王)の遺体を処理するようなしかたで、修行完成者の遺体も処理すべきである。」

尊い方よ。では、世界を支配する帝王の遺体は、それをどのように処理したらよいのでしょうか?」

「アーナンダよ。世界を支配する帝王の遺体を、新しい布で包む。新しい布で包んでから、次に打ってほごされた綿で包む。次に新しい布で包む。このようなしかたで、世界を支配する帝王の遺体を五百重に包んで、それから鉄の油槽の中に入れ、他の一つの鉄槽で覆い、あらゆる香料を含む薪の堆積をつくって、世界を支配する帝王の遺体を火葬に付する。そうして四つの辻(四つの道路の合一する地点)に、世界を支配する帝王のストウーパをつくる。アーナンダよ。世界を支配する帝王の遺体に対しては、このように処理するのである。アーナンダよ。世界を支配する帝王の遺体を処理するのと同じように、修行完成者の遺体を処理すべきである。誰であろうと、そこに花輪または香料または顔料をささげて礼拝し、また心を浄らかにして信ずる人々には、長いあいだに利益と幸せとが起るであろう。」

② 「病い重し」『ブッダ最後の旅』(岩波文庫版 P173)

 尊者カッサバは、クシナーラーの天冠寺であるマッラ族の祠堂、尊師の火葬の薪にあるところにおもむいた。そこにおもむいて、(右肩をぬいで)衣を一方の(左の)肩にかけて、合掌して、火葬の薪の堆積に三たび右肩をむけて廻って、足から覆いを取り去って、尊師のみ足に頭をつけて礼拝した。かの五百人の修行僧も、衣を一方の肩にかけ、合掌して、火葬の薪の堆積に三たび右肩をむけて廻って、尊師のみ足を頭につけて礼拝した。そうして尊者大カッサバと五百人の修行僧とが礼拝しおわったときに、尊師の火葬の薪の堆積はおのずから燃えた。」

③ 「遺骨の分配と崇拝」『ブッダ最後の旅』(岩波文庫版 P173)

 さて、マガタ国王であるアジャータサットゥ、ヴィデーハ国王の女の子は、「尊師はクシナーラーでお亡くなりになったそうだ」ということを聞いた。そこでマガタ国王であるアジャータサットゥ、ヴィーハ国王の女の子は、クシナーラーに住むマッラ族に使者を遣わして、「尊師も王族(の出身)であり、わたしも王族である。わたしもまた尊師の遺骨(舎利)の一部分の分配を受ける資格がある。私も尊師の遺骨をおさめるストウーパ(舎利塔)をつくって、祭りを行いましょう。」と言った。

ヴェサーリーに住むリッチャヴィ族は、「尊師はクシナーラーでお亡くなりになったそうだ」ということを聞いた。そこで、ヴェサーリーに住むリッチャヴィ族は、クシナーラーに住むマッラ族に使者を遣わして、「尊師も王族(の出身)であり、われわれも王族である。われわれもまた尊師の遺骨(舎利)の一部分の分配を受ける資格がある。われわれも尊師の遺骨をおさめるストウーパ(舎利塔)をつくって、祭りを行いましょう。」と言った。

 「カピラ城に住むサーキヤ(釈迦)族は、「尊師はクシナーラーでお亡くなりになったそうだ」ということを聞いた。

そこで、「カピラ城に住むサーキヤ(釈迦)族は、「尊師はわれわれの親族のうちで最も偉い人である。われわれもまた尊師の遺骨の一部分の分配を受ける資格がある。れわれも尊師の遺骨をおさめるストウーパ(舎利塔)をつくって、祭りを行いましょう。」と言った。

 「またアッラカッパに住むブリ族は、「尊師はクシナーラーでお亡くなりになったそうだ」ということを聞いた。そこで、アッラカッパーに住むブリ族は、クシナーラーに住むマッラ族に使者を遣わして、「尊師も王族(の出身)であり、われわれも王族である。われわれもまた尊師の遺骨(舎利)の一部分の分配を受ける資格がある。われわれも尊師の遺骨をおさめるストウーパ(舎利塔)をつくって、祭りを行いましょう。」と言った。

 ラーマ村に住むコーリヤ族は、「尊師はクシナーラーでお亡くなりになったそうだ」ということを聞いた。そこで、ラーマ村に住むコーリヤ族は、クシナーラーに住むマッラ族に使者を遣わして、「尊師も王族(の出身)であり、われわれも王族である。われわれもまた尊師の遺骨(舎利)の一部分の分配を受ける資格がある。われわれも尊師の遺骨をおさめるストウーパ(舎利塔)をつくって、祭りを行いましょう。」と言った。

 ヴェーディーバに住む或るバラモンは、「尊師はクシナーラーでお亡くなりになったそうだ」ということを聞いた。そこでヴェーディーバに住む或るバラモンは、「尊師は王族(の出身)であり、わたしはバラモンである。わたしもまた尊師の遺骨(舎利)の一部分の分配を受ける資格がある。われわれも尊師の遺骨をおさめるストウーパ(舎利塔)をつくって、祭りを行いましょう。」と言った。

バーヴァーに住むマッラ族は、「尊師はクシナーラーでお亡くなりになったそうだ」ということを聞いた。そこで、バーヴァー村に住むマッラ族は、クシナーラに住むマッラ族に使者を遣わして、「尊師も王族(の出身)であり、われわれも王族である。われわれもまた尊師の遺骨(舎利)の一部分の分配を受ける資格がある。われわれも尊師の遺骨をおさめるストウーパ(舎利塔)をつくって、祭りを行いましょう。」と言った。

 かれらがこのように言ったときに、クシナーラーのマッラ族は、かの集まった人々に、このように言った、「尊師はわれわれの村の土地でお亡くなりになったのである。われわれは尊師の遺骨の一部分をも与えないであろう」と。

 ―かれらがこのように言ったときに、ドーナ・バラモンは、集まった人々にこのように言った。―

 ―「きみらよ。聞けわが一言を。われわのブッダ(堪え忍ぶこと)を説く方でありました。最上の人の遺骨を分配するのに争うのは善くありません。きみらよ。きみらはすべて一致協力して仲良くしてください。われらはともに喜び合って(ご遺骨)を八つの部分に分けましょう。ひろく諸方にストウーパあれかし!(あなたがたばかりでなく)多くの人々は眼あるひと(ブッダ)を信じています。」と。

 ―「それではバラモンよ。あなたは尊師の遺骨を八つの部分に分けて、平等にうまく配分なさい」

 ―「承知しました」とドーナ・バラモンはその集いの人々に答えて、尊師の遺骨を八つの部分に分けて、平等にうまく分配して、かの集いの人々にこう言った。

 ―「みなさん、この瓶をわたしにください。わたしもまた、(尊師の遺骨を納めた)瓶をまつるためにストウーパをつくり、祭りを行いましょう」と。

ピッパリ林にいるモーリヤ族は、「尊師はクシナーラーでお亡くなりになったそうだ」ということを聞いた。そこで、ピッパリ林にいるモーリヤ族は、クシナーラに住むマッラ族に使者を遣わして、「尊師も王族(の出身)であり、われわれも王族である。われわれもまた尊師の遺骨(舎利)の一部分の分配を受ける資格がある。われわれも尊師の遺骨をおさめるストウーパ(舎利塔)をつくって、祭りを行いましょう。」と言った。

 -「尊師の遺骨は一部分も残っていない。尊師の遺骨はすでに分配された。だから灰を持っていきなさい。」それ故に、彼は灰を持ち、去った。 

(― 途 中 省 略 ―)

 こういうわけで、八つの遺骨のストウーパと、第九の瓶のストウーパと、第十に灰のストウーパとがある。

 以上のように、これはかつての起こった(昔の)ことである。

 眼ある人の遺骨は八斛ある。七斛はインドで供養された。最上の人(ブッダ)の他の一斛(の遺骨)はラーマ尊で諸々の竜王が供養する。一つの歯は三十三天供養され、また一つの歯はガンダーラ市で供養される。また一つの歯はカリンガ王の国において供養される。また一つの歯を諸々の竜王が供養している。その威光によってこの豊かな大地は、最上の供養物をもって飾られるているのである。

このように眼ある人(ブッダ)の遺骨は、よく崇敬され、種々にいともよく崇敬されている。天王(神々の王)・諸々の竜王・人王に供養され、最上の人々によってこのように供養されている。合掌してかれを礼拝せよ。げにブッダは百劫にも会うこと難し。

 

() 『大唐西域記』・『南海寄帰内法伝』にみる葬送儀礼

 

  1. ⇒ 大唐西域記」巻2(水谷真成訳 中国古典文学大系22 平凡社 1971年 P70)

家した僧たちは制度として死者を泣き悲しむというものはなく、父母の死にあえば心に思い浮かべては恩に酬いんことを思い、葬儀を丁重にすることはまことに冥福の一助となることである。

  • ⇒ 「南海寄帰内法伝」(大正新脩大蔵経 史伝部 54巻 ここでは、漢文書下しを掲載。宮林昭彦・加藤栄司による現代語訳は、レジュメ(要旨)編のP7以下に関連部分を引用。)

 

 又復た、死喪の際に、僧・尼は漫りに礼儀を設け、或いはまた俗と哀を同うして、将って孝子と為り、或いは房に霊机を設けて、用って供養を作し、黲布を披いて恒式に乖き、或いは長髪を留めて則を異にし、或いは哭杖を挂え、或いは苦蘆に寝るがごとき、斯れ等は、全く教儀には非ざるをもって、行わざるも過あることなし。理としてまさにその亡者の為に、浄く一房を飾り、或いは特に従って権に蓋幔を施し、経を読み念じ、具に香華を設くへし。ねがわくは亡魂をして、生を善処に託せば、方に孝子と成り、始めてこれ恩に報いるべし。あに泣血すること三年にして、まさに徳に賽ゆとなし、食せざること七日にして、始めて酬恩に符う可き者ならんや。これすなわち重ねて塵労を結び、さらに枷鎖を嬰らし、闇より闇に入りて縁起の三節を悟らず、死より死に趣てなんぞ円成の十地を証せんや。しかも、仏教に依るに、苾芻の亡者、決死を観知せば、当日に舁きて焼処に向かい、尋いで即ち火をもってこれを焚く。これを焼く時に当たりては、親友、咸く萃りて、一辺に在りて坐し、或いは草を結びへ座と為し、或いは聚めて台を作り、或いは甎石を置きて、以て座物に充て、ひとりの能者をして無常経を誦せしむること半紙、疲久せしむることなかれ。然る後に、各々の無常を念じて住処に還帰し、寺外の池の内にて衣を重ねて並び浴す。その池なき処にては、井について身を洗う。みな故衣を用いて新服を損わず。別に乾けるを着し、しかして後に房に帰る。地は牛糞をもって浄く塗る。余事、並びにみな故のごとし。衣服の儀は、かつて片別なし。或いはその設利羅を納めて、亡人のために塔を作ることあり。名づけて倶攞となす。形は小塔のごときも、上に輪蓋なし。しかも塔に凡聖の別あり、律の中にひろく論ずるがごとし。あに釈父の聖教を捨てて周公の俗礼を遂い、号咷数月、布服三年するを容れんや。かつて聞く、霊裕法師あり、挙発をなさず、孝衣を着けず、先亡を追念して、為に福業を修せり。京洛の諸師もまたこの轍に遵うもの有り。ある人、おもえらく、孝に非らずと、なんぞ知らんや、さらに律旨に符うことを。

 

() 「無常経・臨終方訣」(伝義浄訳、ただし漢文書下は、②「臨終方訣」のみ)

 

  1. 佛說無常經          大唐三藏法師義淨奉制 譯 大正17745
  2. 稽首歸依無上士 常起弘誓大悲心 為濟有情生死流 令得涅槃安隱處 大捨防非忍無倦 一心方便正慧力 自利利他悉圓滿 故號調御天人師 稽首歸依妙法藏 三四二五理圓明1 七八能開四諦2 修者咸到無為岸 法雲法雨潤群生 能除熱惱蠲眾病 難化之徒使調順 隨機引導非強力 稽首歸依真聖眾 八輩上人能離染 金剛智杵破邪山 永斷無始相纏縛 始從鹿苑至雙林 隨佛一代弘真教 各稱本緣行化已 灰身滅智寂無生 稽首總敬三寶尊 是謂正因能普濟 生死迷愚鎮沈溺 咸令出離至菩提 生者皆歸死 容顏盡變衰 強力病所侵 無能免斯者 假使妙高山 劫盡皆壞散 大海深無底 亦復皆枯竭 大地及日月 時至皆歸盡 未曾有一事 不被無常吞 上至非想處 下至轉輪王 七寶鎮隨身 千子常圍遶 如其壽命盡 須臾不暫停 還漂死海中 隨緣受眾苦 循環三界內 猶如汲井輪 亦如蠶作繭 吐絲還自纏 無上諸世尊 獨覺聲聞眾 尚捨無常身 何況於凡夫 父母及妻子 兄弟并眷屬 目觀生死隔 云何不愁歎 是故勸諸人 諦聽真實法 共捨無常處 當行不死門 佛法如甘露 除熱得清涼 一心應善聽 能滅諸煩惱如是我聞,一時,薄伽梵在室羅伐城, 逝多林給孤獨園。爾時,佛告諸苾芻: 有三種法,於諸世間是不可愛、是不光澤、是不可念、是不稱意。何者為三?謂老、病、死。汝諸苾芻?此老、病、死於諸世間實不可愛、實不光澤、實不可 念、實不稱意。若老、病、死世間無者,如來應正等覺不出於世,為諸眾生說所證法及調伏事。是故應知,此老、病、死於諸世間是不可愛、是不光澤、是不 可念、是不稱意。由此三事,如來應正等覺出現於世,為諸眾生說所證法及調伏事。爾時世尊,重說頌曰:外事莊彩咸歸壞 內身衰變亦同然 唯有勝法不滅亡 諸有智人應善察 此老病死皆共嫌 形儀醜惡極可厭 少年容貌暫時住 不久咸悉見枯羸 假使壽命滿百年 終歸不免無常逼 老病死苦常隨逐 恒與眾生作無利 爾時世尊說是經已,諸苾芻眾、天、龍、藥叉、揵闥婆、阿蘇羅等,皆大歡喜,信受奉行。 常求諸欲境 不行於善事 云何保形命 不見死來侵 命根氣欲盡 支節悉分離 眾苦與死俱 此時徒歎恨 兩目俱飜上 死刀隨業下 意想並慞惶 無能相救濟 長喘連胸急 短氣喉中乾 死王催伺命 親屬徒相守 諸識皆昏昧 行入險城中 親知咸棄捨 任彼繩牽去 將至琰魔王 隨業而受報 勝因生善道 惡業墮泥犁 明眼無過慧 黑闇不過癡 病不越怨家 大怖無過死 有生皆必死 造罪苦切身 當勤策三業 恒修於福智 眷屬皆捨去 財貨任他將 但持自善根 險道充糧食 譬如路傍樹 暫息非久停 車馬及妻兒 不久皆如是 譬如群宿鳥 夜聚旦隨飛 死去別親知 乖離亦如是 唯有佛菩提 是真歸仗處 依經我略說 智者善應思 天阿蘇羅藥叉等 來聽法者應至心 擁護佛法使長存 各各勤行世尊教 諸有聽徒來至此 或在地上或居空 常於人世起慈心 晝夜自身依法住 願諸世界常安隱 無邊福智益群生 所有罪業並消除 遠離眾苦歸圓寂 恒用戒香塗瑩體 常持定服以資身 菩提妙華遍莊嚴 隨所住處常安楽;外事莊彩咸歸壞 內身衰變亦同然 唯有勝法不滅亡 諸有智人應善察 此老病死皆共嫌 形儀醜惡極可厭 少年容貌暫時住 不久咸悉見枯羸 假使壽命滿百年 終歸不免無常逼 老病死苦常隨逐 恒與眾生作無利 爾時世尊說是經已,諸苾芻眾、天、龍、藥叉、揵闥婆、阿蘇羅等,皆大歡喜,信受奉行。 常求諸欲境 不行於善事 云何保形命 不見死來侵 命根氣欲盡 支節悉分離 眾苦與死俱 此時徒歎恨 兩目俱飜上 死刀隨業下 意想並慞惶 無能相救濟 長喘連胸急 短氣喉中乾 死王催伺命 親屬徒相守 諸識皆昏昧 行入險城中 親知咸棄捨 任彼繩牽去 將至琰魔王 隨業而受報 勝因生善道 惡業墮泥犁 明眼無過慧 黑闇不過癡 病不越怨家 大怖無過死 有生皆必死 造罪苦切身 當勤策三業 恒修於福智 眷屬皆捨去 財貨任他將 但持自善根 險道充糧食 譬如路傍樹 暫息非久停 車馬及妻兒 不久皆如是 譬如群宿鳥 夜聚旦隨飛 死去別親知 乖離亦如是 唯有佛菩提 是真歸仗處 依經我略說 智者善應思 天阿蘇羅藥叉等 來聽法者應至心 擁護佛法使長存 各各勤行世尊教 諸有聽徒來至此 或在地上或居空 常於人世起慈心 晝夜自身依法住 願諸世界常安隱 無邊福智益群生 所有罪業並消除 遠離眾苦歸圓寂 恒用戒香塗瑩體 常持定服以資身 菩提妙華遍莊嚴 隨所住處常安楽。

 

  •  「臨終方訣」

 

もし苾芻((ヒッシュ・ヒッシュニ)・苾芻(比丘・比丘尼))尼、もし鄔波索迦((ウバソク・ウバイ)、鄔波斯迦(優婆塞・優婆夷)),もし人ありてまさに命終らんとし、身心苦痛なるを見れば、まさに慈心を起し、拔濟饒益すべし、香湯にして澡浴して清浄ならしめ、新たに淨衣を著せしめ、安詳に坐さしめ、正念に思惟せしめよ。もし病の人、自ら力なくば、、餘人、扶け坐さしめよ。また、坐するに能ざれば、ただし病者の右の脇を地に著せしめ、至心して合掌せしめ、面を西方に向け、まさに病者を前にして、一つの淨処を取り、ただ牛糞・香泥を用い地に塗り、心に随い大小の方角の壇となし、華をもって布地とし燒衆の名香をもって焼き,四の角に灯を燃ず、その壇の內において綵像(注-絹本・着色・絵像)を一つ懸け、かの病人をして心々相続せしめ,その相好を観じて了了分明して、菩提心を発せしめよ、また為に広く三界は居し難く、三塗の苦難にして所生の処にあらず、ただ仏菩提これ真に帰仗して、帰依をもってゆえに、必ず十方諸仏剎土に生ぜしむ、菩薩と居し,微妙の樂を受く、病者に問うて言く、汝、今何れの佛土に生まれんと楽うや、病者、答へて言く、我が意、樂う生某仏(注―なにがし仏=それぞれが信ずる「○○仏世界」)世界に生ぜんと楽うと、時に說法の人、まさに病者の心の欲する処に従いて、ためにして仏土・因緣を宣説す、十六観等、なお西方無量寿国の如く、一一に具に說き、病者の心に佛土に生ぜんを楽はしむ、為に説法し己りて、また諦觀を教え、従いて何れの方の国に従い、仏身の相好、相好を観ずるにいたりて、復た仏および諸菩薩を請うを教え、しかしてこの言を作せしむ、如来へ稽首し、まさに.正等覺、ならびに諸菩薩摩訶薩、我へ哀愍を願い、拔濟饒益して、我れ今、奉請す、衆罪を為すを滅さんがために、またまさに弟子として、仏菩薩に従い仏国土に生ぜん、第二、第三、また是の如く說く、すでに教を請けるにいたりて、復た病人彼の仏名(それぞれが信ずる仏の名前)を称ぜしむ、十念成就す、与に三帰を受く、廣大懺悔し、懺悔おわりて、また病人のために菩薩戒を受く、もし病人困して言うことあらはざるは,余人代りて受け懺悔等に及び、至心ならざるを除かず、然してまた罪を滅し菩薩戒を得る、すでに戒にいたりて、彼の病人を扶け首を北にして臥さしむ、面を西方に向きて、目開き目閉じるも、諦に佛三十二相・八十隨形好を想せしむ、乃至十方諸佛また復た是の如し、また為にその四諦因果、十二因緣、無明老死、空等の觀を説く、もし命終に臨むは、看病の余人、但し為に仏を称し、声声は絕ゆる莫れ、然し佛名を称し、病者の心に随いて、その名号を称え、余仏を称することなかれ、病者の心、疑惑を生ずることを恐ればなり。然れば彼の病人の命、漸く終れんと欲するに、即ち化仏および菩薩衆、妙香花を持ち行者を来迎す、行者を見る時、便ち歡喜を生じ、身苦痛せず、心散乱せず、正見の心生じ禪定に入るが如し、尋いで即ち命終す、必ず地獄傍生・餓鬼の苦に怠惰せず、前の教法に乗じ、猶如の壯士の膚を屈伸する頃に、即ち仏前に生ずべし、若し在家の鄔波索迦なれば、鄔波斯迦等なれば、若し命終の後、当に亡者の新好の衣服および隨身受用の物を取りて、分ちて三分し、その亡者のために正に仏陀、達磨、僧伽に施すべし、これに由りて亡者の業障、転じて尽き、勝れたる功德福利の益を獲ん、まさにその死屍に好衣などを著せしめて、まさにもってこれを送るべからず、何をもっての故に、利益無きが故に、若し出家の苾芻・苾芻尼および寂を求める等の、、所有の衣物及び衣物にあらず、諸の律の教えのごとくせよ、余は白衣に同じ、もし亡き人を送るはその殯所に至らば、下風に安置すべし、側臥せしめ、右脇を地につけ、面を日光に向け、其の上風において、まさに高坐を敷き、種種に莊嚴すべし、一苾芻の能く読経するもの請じ、法座に昇りて、其の亡者為に無常經を読ましめよ、孝子(注-僧の遺族 ⇚父母に仕える孝行な子)は哀を止め復た啼哭ことなかれ、およびもって余人も皆な悉く至心に彼の亡者ために燒香散花し、高座にて微妙の經典を供養し、及び苾芻に散じ、然る後に安坐して、合掌恭敬し一心に経を聴くべし、苾芻、徐々に応に遍く読むべし。もし経を聞く者は、各おの自ら己身の無常にして、久しく磨滅するを観じ、世間を離れ、三摩地に入ることを念ずべし、この経を読みいたりて、またさらに散花し燒香供養すべし、また苾芻を請じて従いて何らかの咒を誦し、「無虫水」を咒することを滿三七遍して、亡者の上に灑ぐ、またさらに淨黃土を咒し、滿三七遍して亡者の身に散じ、然る後に意に随い、あるいは卒塔婆の中に安じ、あるいは火をもって焚く、あるいは屍陀林、ないし土に下す、これをもって功德因縁の力をもってゆえに、彼の亡人をして、百千萬億俱胝那庾多劫の、十惡四重五無間業、謗大乘経、一切業報の障し、一時に消滅し、諸仏の前において大功德を得ん、智を起し惑を断じ、六神通および三明智を得て、初地に進入し、十方に遊歴し、諸仏を供養し、正法を聴受し、漸漸に無返の福慧修習し、ついにまさに無上菩提を証得し、正法輪を転じて無央の衆を度し、大円寂に趣て最正覚を成ぜん。臨終方訣。仏説無淨経。」

()「葬儀」をめぐる習俗・俗説・迷信「用語解説集」(1 暫定版) 

1 末期(まつご)の水(死(し)に水)

 出典は不明であるが、16世紀(戦国期)には、近親者が死にゆく縁者(死者)の口唇に水を含ませる作法・習慣が成立していた。

ただし、『長阿含(じょうあごん)遊行(ゆぎょう)経(きょう)』に、臨終を迎えたブッダが、阿難(アーナンダ)へ水が欲しいと言い、鬼神が寄進した清水を口に含ませたとある。ただし、「末期の水」が日本で習慣となった時期(戦国期といわれる)には、この経典は日本に馴染みが薄く、この話は知られていない。

 

 

2 「一(いち)膳(ぜん)飯(めし)」(「枕(まくら)供(ぐ)」・「枕飯」・「枕団子」)

 これも出典は不明であるが、仏(本尊)に供える「仏飯・仏供米」とは別に、臨終の際に枕元に一膳の「白米」上新粉で作った白い「団子」を供える。白米は茶碗に円形に盛り付け、団子は白木の三方に6~7個のせる。

意味としては、亡者の「魂(霊魂)」が、臨終から通夜の間に、主に善光寺立山(芦峅(あしくら)寺)といった霊場へ参詣(結縁)する際の「弁当」である、と言われている。

また、地域によっては団子のみ、団子と飯の両方を供える。御飯茶碗(仏飯器は使用しない)に一本のみ、漆・金箔などの装飾した箸ではなく、素地(木製)の箸を立てることの意味は不明である。また、地域によっては立てない地域もある。

故人が使用していたご飯茶碗を出棺に際して、激しく地面にぶつけ音を立てて割るのも、「引導」(故人が人間から成仏)された後なので、仏となったから、中蔭壇・年回壇・仏壇の仏飯器に供えられるので、俗世の茶碗は必要ないことを、元来は表していた。ところが、ご飯を食べに、家族の処へ亡者が戻ってこないようにと割る、という習慣は、幽霊(怪談)が流行した江戸時代末期からの俗説で出来た迷信である。

また、一膳飯・枕団子は、地獄・賽の河原の餓鬼への施物(施餓鬼)であるから、生者は決して食べてはいけないとする地域もある。

 

3 経(きょう)帷子(かたびら)野草(やそう)衣(い)・浄(じょう)衣(え)・明衣(みょうえ)…、とも言う)

 亡者へ白木綿の衣服を着せる。経典を書写し、亡者の冥土への旅路のお守りとする。天冠・手甲・脚絆 足袋・草履を履かせるが、着物は亡者が好んだ季節のものを用意し、左前に着せる。明治には入り簡略化し季節感や紙衣も使用されるようになった。これは、都市部において、江戸後期から葬送業者(葬儀屋)が関与するようになったためであり、事前に定型化された死に装束が用意されだしたことが大きいと考えられる。棺桶・死装束・祭壇が事前に業者によって用意されることにより、葬送期間が短縮化し定型化が促進されたという民俗学者の指摘もある。

<参考> 真宗高田派の「野(の)袈裟(げさ)」

 棺に袈裟を掛けるのは、真宗においては本願寺教団のみの儀礼ではなく、真宗高田派では、「野袈裟」と葬儀用の袈裟が存在している。蓮如と同時期に活躍した真(しん)慧(ね)が、関東から近江から伊勢にかけて教線を展開させた際に使用した例が報告されている。

 

 4 天(てん)冠(か)(てんかん」でもよい。いわゆる三角頭巾、別名「紙冠=かみこうぶり」⇒「かみかんむり」の訛?) 

閻魔の冥宮(めいきゅう)で、亡者が閻魔大王に失礼が無いように、亡者(もうじゃ)であることを示すため、頭部へ三角の頭巾を巻く装身具。仏・菩薩や天人(てんにん)(例えば、弁財天(べんざいてん)・吉祥天(きっしょうてん)…)が、頭部に被っている金属製の「宝冠」からきている。成仏への願いを表現していた。(仏語から転じて、伝統芸能の「能」では、金属性の輪冠をいう) 

5 頭陀(ずた)袋(ぶくろ)(六文銭を入れる袋・俗名=すみ袋)

 

もとの意味は、頭陀袋は、禅の修行僧が托鉢(たくはつ)の際に、経典・仏具を入れ、托鉢で得た食糧・衣類・金銭のなどの布施物(ふせぶつ)を入れる。托鉢・遊行(ゆぎょう)の際に首から肩にかける袋。転じて亡者が没後(もつご)に、施主(せしゅ)と縁者(えんじゃ)が冥土の旅路ために準備し、施主・縁者からの旅路の路銀(ろぎん)と必要品を入れ、その象徴して、地獄の獄卒(ごくそつ)(赤鬼・青鬼)への「心付け」のために小銭(六文銭)を入れる袋。「六」という数字は、「六道(ろくどう)・輪廻(りんね)」が語源といわれているが確定はされていない。

 

6 六文(ろくもん)銭(せん)

「仏説 血(けつ)盆(ぼん)経(きょう)」に基づいて作成された「地獄絵」に、三途(さんづ)ノ川(三途の橋)に河岸に姥堂(うばどう)があり、姥堂には脱衣(だつえ)婆(ば)(老女の容姿)が居て、閻魔の冥宮へ通行する亡者の、衣服や所持品を身ぐるみ剥いで、裸にしまう。その際に、亡者の手のひらや、頭髪の中に隠した「小銭」は、脱衣婆も目こぼししてくれるという。

そして、かろうじて小銭を所持して閻魔の冥宮(めいきゅう)で、生前の罪科(ざいか)を問われ、その罪に従って「再修行」の場としての「地獄」へ堕ち、獄卒(ごくそつ)(赤鬼・青鬼・黒鬼)の観察の下に修行のやり直しがまっている。(それぞれの修行とは。例えば、悟っていないのに仏法を語り(妄語)、仏・菩薩への寄進された仏物を自分の物(仏物互用)にする「僧侶」は、「釘抜(くぎぬき)=舌抜地獄」へ堕ちる。)

そして、地獄では、獄卒の鬼たちの厳しく過酷な監督・監視を受けながら修行を積むが、その際に、獄卒へ手抜きをしてもうために「小銭」を渡すという。(「地獄」の沙汰も銭次第)そして、一年に一度、盂蘭盆会の際は、施主(せしゅ)・縁者の下に帰り、饗宴を受ける。盆が終わり、地獄への帰路には、再度に脱衣婆が管理する「三途の川の橋」通り、姥堂での検査を受けて地獄に渡らなければならない。その際に、できるだけ脱衣婆の機嫌がとれるだけの金銭・品物を差しだすことにより、引き換えに地獄に持ち込める「小銭(六文銭)」が多少は融通されて持ち込めるという。盂蘭盆会に施主と縁者から、改めて地獄での修行のための用意をしてもらう。

1 ただし「血盆経」は、現在、全日本仏教会全日仏(ぜんにちぶつ)でにおいては、女性差別経典として印刷・読誦を遠慮することが決定・指示されている。「血盆経」をもとにした「地獄絵」には、「血の池地獄(女性の地獄・血(けつ)盆(ぼん)池(ち))」・「馬(うま)詰(づめ)地獄(子どもを産めない女性の地獄)両婦(りょうふ)地獄(夫への嫉妬・執心による地獄)」が描かれている。(1980年年代後半まで、一部の寺院で配布されていて問題となった。)

東北南部・関東・中部では、女性は、子どもが嫁を取り隠居になると、長野善光寺(大本願(だいほんがん))に参詣し「血盆経」の「護符(ごふ)」を求め、葬儀の際には「頭陀袋」に六文銭と一緒に入れる習慣(納棺符)があった。(牛にひかれて善光寺参りの説話のタネ)また、近世には善光寺(いわゆる新善光寺)が建立され、全国的に「血盆経(血脈符)を納棺する習慣も拡大した。(戒壇(かいだん)廻り(めぐり))

血盆経」による女性の葬送儀礼は、善光寺とともに立山(芦峅寺(あしくらじ)=現在は廃寺)もよく知られている。現在、富山県立山博物館が、9月下旬に「布(ぬの)橋(はし)大灌頂(だいかんじょう)」を再現し見学できる。

※2 「血脈(けちみゃく)符(ふ)」 東北南部・関東・中部(善光寺立山信仰圏)では、女性の葬儀に際して「血脈符(お血脈)」が棺に納められる。「血脈符」の概要は「お札」の表面は「仏説 血盆経」、裏面は「転女成男・女人成仏」といった文言が木版刷されている。中には、「血盆経(1)と、善光寺であれば、歴代の本願上人(住持)が並び、最後には「願主」と印刷されている。(「願主」は、札を求めた人であるから所持者ということになる。)

※3 「賽銭」も同じような意味をもともと持っていた。賽の河原(さいのかわら)を彷徨する亡者への供養に小銭を投銭し、亡者は拾い獄卒への袖の下に使う。中蔭壇・年回壇・寺院本堂の焼香卓へ小銭を置く習慣も、亡者が地獄で使用するための「賽銭」を供養したことに始まる。

 

8 手甲(てっこう)・脚(きゃ)絆(はん) 足袋・草鞋(わらじ)

 

亡者のために施主・縁者が、冥土・冥宮への旅路のために用意した道具、旅したくを「白」を基調に行う。地域によっては、「草履」・「木(もく)杖(じょう)」(木の杖、金属製の錫(しゃく)杖(じょう)は不可)を持たせる。あくまで、閻魔大王の冥宮で審判を受けなければならないので、華美なものは避け、質素かつ簡便あることが求められる。

また、地域によっては、満中陰(四九)日より以前の三五(五七日)の法要の際に、墓前に草鞋を供える。これは、四九日(満中陰)で成仏するわけでるから、三五日では冥土への旅の途中であるから、新しい草鞋と交換し旅路が無事に終わることを祈願し、故人の成仏(満中陰で成仏と考える)を助ける。(追善供養)

 

9 三五(さんじゅうごにち)日(五七日(ごなのか))

一部の宗派と地域においては、中陰における三五日(五七日)を重視する。亡者の成仏(往生浄土)は、四九日(七七日)までの「追善供養(修行)」により成仏すると考える宗派では、中陰の期間は、閻魔の冥宮での審議を経て、浄土(極楽)を遂げるまでの旅路の行程にあると考える。そのため、葬儀に際しては、閻魔の冥宮での審議を受けるための死装束(経帷子の天冠・頭侘袋・六文銭)に身を調え、手甲・脚絆・草鞋・といった旅仕度で亡者を納棺うる。一膳飯(枕餅)は、冥土への旅路の準備として、善光寺立山・熊野としった霊場へ「護符(納棺符)」を受けに行くための「弁当」として用意される。

そして、中陰の期間は現世から冥土から成仏(極楽浄土)への旅路であり「五七日(三五日)」あたりは、旅路が終盤の「胸突き八丁」となることと、閻魔の冥宮が近付いたので改めて装束を整えるため、亡者への「追善供養」として、満中陰(七七日・四九日)で成仏する亡者のために、成仏して亡者や戻ってくる「参墓」へ草鞋などの新しい旅装束を供える。(三五日=五七日)

 

<参考 「両墓(りょうぼ)制」(埋(うめ)墓(ばか)・参(まいり)墓(ばか))>

民俗学のいう「(両墓制」とは、土葬の場合においては、遺体を埋葬し一定の期間が過ぎ白骨化した後、遺体が埋葬されている埋墓を掘り起こし遺骨を「洗骨」し骨壷に収骨する。骨壷は、墓参の対象とされる参(詣)墓に納骨される。つまり、埋葬され納骨されるまで遺体が骨に還るまでの「埋墓」と、納骨され「墓参り」の対象となる「参墓」の二つの墓地によって構成されるのが「両墓制」であるとされる。

 10 お性根(しょうね)入(い)れ・お魂入れ

 仏壇へ本尊を迎えたり、卒塔婆を作成したり・墓石(墓碑)を建立する際に、僧侶が読経することを「お性根入れ」・「お魂入れ」という。禅(曹洞宗)の作法では「点眼」といい、読経により、本来は金属塊・木片・石塊である仏像・仏具に「魂」・「性根」を吹き込む儀式・作法である。(反対は、「お性根抜き、お魂抜き」) 

11 「位牌」(ただし、筆者による「覚書」、定見ではない。調査・研究中のノートである。)

 位牌については、儒式や中国の民間習俗との関連が複雑に混交して、「位牌」とは何か、についての定見を得ることは困難であるように考えられる。ここでは、筆者がこれまで得た知見のうち、真宗と「位牌」の位置関係を思慮するために参考になりうる部分を覚書する。( 注記 結論には至らず、分析中。現状では未完の論議で低い実証度といえる)

 位牌は、儒教式の葬送儀礼から習慣であり、禅が儒式の「位牌」(官位・官職・俸給を記し生前の社会的身分を表現=来世における地位保障?)を仏式に転用したものと考えられている宋代(11世紀末頃)の『禅苑清規(しんぎ)』、元代(13世紀)『勅修百丈清規(しんぎ)』には、仏式の葬儀についての記録はあるが、作法や意味づけについての具体的な記述はない。あるいは、『仏祖統紀』・『宋高僧伝』といった僧伝には、僧尼の葬儀が在家信者に手によって盛大に執り行われたことが記録されているが、葬儀の作法や内容についての具体的記述はない。また、後世の仏式葬儀に重視される「位牌」も登場していないが、儒教ではすでに「位牌」が製作されていて、禅の葬送儀礼に採用されたと考えられている。日本では、禅の伝来とともに「位牌」が製作されるようになったといわれている。ただし、「位牌」の素形については不明な部分が多く室町期(15世紀中ごろ)の葬送儀礼に関する諸記録に現れはじめ定着が確認できる。

すでに1447(応永24)年2月から3月にかけて記された『看聞御記』(群書類従)には、伏見宮治仁王(葆光院)の葬儀につきての記事がある。

2月11日 治仁王、寅剋に閉眼する。(院号は、葆光院。ただし、院号親王=皇族であるから生前に、朝廷が決定し比叡山天台宗より授与されてたと推定される。)

2月12日 荼毘について評定し、夜に「光明真言」を咒す。

2月13日 夜に、尊体落髪、戒師は廓首座、剃手は大光明寺の僧侶より。位牌・法名についての沙汰を行う。法名は絶海中津より授与されている。「松屋衒公尊霊」と位牌の文字を決定。

2月14日 荼毘の日程は協議するが未定。

2月15日 荼毘を戌の刻と決定する。山作所を築き、龕前念誦、荼毘、葬儀の導師は蔵光庵主。深草の禅衆も参詣。

2月17日 収骨、甚雨により仏事は修することはできず。

2月18日 初七日。

2月22日 二七日。

2月26日 三七日。南禅寺阿栄蔵主叡蔵主ら参列。

2月29日 大通院(栄仁親王)百ヶ日。施餓鬼、五部大乗経を転読。

2月30日 四七日。

3月4日 五七日。『地蔵本願経』を写経。

3月9日 六七日。懺法一座。

313日 治仁王(葆光院)、大光明寺に納骨。

3月15日 尽七日(四九日)結願仏事。「中陰無為無事結願珍重」。晩に「魚食」(精進ほどき)。

<以下、関連資料を随時に編集し配布ていく予定である。>

禅からみる真宗の葬送儀礼 ー真宗の死の作法を引導する禅ー

禅からみる真宗の葬送儀礼

真宗の死の作法を引導する禅- 

 禅の葬送儀礼の注目すべき先行研究としては、石川力山『禅宗相伝資料の研究(上・下)』(2001年 法蔵館)岡部和雄「『無常経』と『臨終方訣』」(平川彰博士古稀記念会編『仏教思想の諸問題』1984年 春秋社)がある。

 

 岡部によれば、インド仏教においては、僧侶用の葬送儀礼しかなく、葬送用の読誦経典であった『無常経』が義浄により唐代に訳出され、以後、出家者の葬送儀礼で使用されるようになる。ただ、『無常経』を訳出した義浄の『南海寄帰内法伝』によれば、義浄の『無常経』訳出の問題意識には、儒教儀礼に同化する唐代仏教儀礼に対する批判があったと考えられている。以後、『無常経』を中心とする葬送儀礼が中国仏教に導入されるが、宋代には儒教道教との習合が改めて進行した。

宋代の葬送儀礼では、義浄訳『無常経』と、湯灌や死装束についての作法を定めた『臨終方訣』が一体として行われるようになり、『大正新脩大蔵経』(『大正蔵経』)では、両者が一体のテキストを使用して紹介されている。死に装束や、遺体を温湯で清拭い、乱れた遺髪や、伸びたヒゲを整え、療養生活で乱れて汚れた身体を清潔し、温顔に化粧(死化粧)を施す施術が行われた。現在の葬送儀礼に通じる作法がすでに形成されつつあることがわかる。

『無常経』と『臨終方訣』が一体のものとして扱われることの意味を考えてみると、民間習俗をもとにした遺体への死の作法の権威づけにあると考えられる。「臨終方訣」は儒教儀礼の影響が強いと考えられていて、その「臨終方訣」を高僧である「三蔵」の義浄訳という権威を持って格式づけたものであろう。したがって、義浄尾役であるからインド伝来の仏典=「仏説」として取り扱われることを意味した。現在においても当然視されている仏教の臨終儀礼が、「儒教」の色彩が潜り込んで「何気」に行われてきたことを予感させる。

そして、仏式と儒式の合体の背景には、仏教教団における葬送儀礼が出家者(僧侶)に対しての限定的儀礼・特権的儀礼であったことに由来する。つまり、中国社会において、仏教が民衆へ拡大すると同時に、在家者の葬送儀礼も必要となったことが予測され、儒教儀礼解説書である『礼記』などの葬送儀礼を取り入れながら在家用の葬送儀礼も形成しだしたことが予測されている。

石川は岡部の議論を受けて、中国仏教の葬送儀礼形成の前提となるのは、もともとインド仏教にはなかった「在家者用」の葬送儀礼を編み出す際に、中国仏教が、死者(亡者・亡霊)を出家者として扱う方針を打ち出したことに注目する。すなわち、在家者の葬送儀礼は、出家を僧侶が在家者に施すことを意味する引導を中心とする「没後作僧」として登場したことが特色といえる。「没後作僧」という在家仏教徒の死者を僧侶に出家させて、その後に読経・焼香といった葬送作法(儀礼)を行うといったもので、師僧である導師が在家者(死者)を、出家者(僧侶)となす引導(作僧)が儀礼の骨格・中心となる。従って、作僧=出家儀礼であるから、授戒・法名授与・法体(袈裟)への、導師による「転成=引導―在家⇒出家―凡夫⇒成仏」が最も重要になるわけである。

つまり、浄土教の往生浄土を実現するための「臨終来迎」を期するための臨終儀礼とは本質を異とする。特に、禅が真宗の葬送儀礼の雛型となった事情は、覚如が「没後作僧」(史料A ②)を批判し、特に臨終儀礼(臨終来迎・臨終正念)を基本とする、伝統的な浄土教の臨終儀礼を中心とする臨終・葬送儀礼を採用せずに、形式的ではあっても出家=仏弟子の名のりを意味する禅の葬送に注目しても不思議ではない。覚如の禅の「没後作僧」への関心の高さが、「平生業成」の主張へつながったものと考えられる。

従って、初期真宗本願寺における「葬送儀礼」を考える際に、臨終来迎・臨終正念を基本とする天台浄土教あるいは法然門流(浄土宗)への批判と、「尊宿(出家者)葬法」・「没後(在家者)作僧」を基本とする禅への批判を考慮にいれなければなるまい。

<参考> 鎌倉幕府得宗(北条)家における「法名=入道」から「尊宿葬法」の事例

吾妻鏡』において、北条時頼が生前に「法名」を受けたとする。時頼の死去に際しては、史実か否かは確かめがたいが、臨終の折には袈裟を着し衣体を整えたというのである。時頼の断息の際には、故人は結跏趺坐のして臨終を迎えたと伝えられている。禅の臨終儀礼にならって在家者の葬送儀礼の嚆矢といわれている。

ただし、この死の作法は在家者を対象とした「没後作僧」ではなく、いわゆる出家者の禅の葬送儀礼である尊宿葬法である。出家者を対象とした尊宿葬法によれば、臨終後に遺体を安置する龕(がん)泉堂(せんどう)を造り、籠龕(こがん)に亡者を結跏趺坐させる。その上で、故人と弟子や檀家(得宗の場合は、家人や親族か?)に遺体を礼拝させる儀礼が行われたものと考えられている。

史料C 『吾妻鏡』(国史大系本 普及版4巻) 弘長四年十一月二十一日 (途中省略) 戌の刻入道正五位下行相模の守平朝臣時頼(御法名道崇、御年三十七)最明寺北亭に於いて卒去す。御臨終の儀、衣袈裟を着し、縄床に上がり坐禅せしめ給う。聊かも動揺の気無し。頌に云く、業鏡高懸、三十七年、一槌撃砕、大道坦然。

弘長三年十一月二十二日 道崇珍重々々 。平生の間、武略を以て君を輔け、仁儀を施して民を撫す。然る間天意に達し人望に協う。終焉の刻また手に印を結び、口に頌を唱へて、即身成仏の瑞相を現す。本より権化の再来なり。誰かこれを論ぜんや。道俗貴賤群を成しこれを拝み奉る。

<参考> 曹洞宗「切紙」における葬送儀礼

史料F1  近世初頭の「比丘尼戒の切紙」、女性の亡者にたいする「没後作僧」のマニュアル(新潟県諸上寺所蔵)。獲麟が実源より「附授(相伝)」された「切紙」。

 

「(端し裏書き)変化授戒の作法

    比丘尼戒の切紙

師、禅床に上がりて、趺し結跏趺坐して、まず有情・非情の同時に成道の深旨を観念す。しかして、化人をして胡座合掌せしめて、此の文を唱えて云う。根元無生地、錯して業因をなす、今四生を受化す。頓に此の忘心を滅すれば、始終に妙円の性、其の体は自ずから空静なり、三つ唱え了りて、法名を安じて示して云う、本来無位、今「某甲」と名づく、我今汝のためにまさに三帰依戒を授くべし、これを授くは常のごとく血脈を附与し、次に焼香し唱えて云う、南無釈迦牟尼仏と、二十一返。次に処世界如虚空の偈を唱えて退出すなり。

 釈迦牟尼仏摩訶迦葉に付授す、々々(くりかえし)阿難陀に付授す、ないし、是の如く嫡々相承してすでに第幾世に吾に到る、十六の仏戒あり。まず三帰依戒に謂く、「南無帰依仏・南無帰依法・南無帰依僧」。次に三聚浄戒に謂く、「南無摂律儀戒・南無摂善法戒・南無摂衆生戒」。次に十重禁戒に謂く、「第一は不殺生戒・第二は不愉盗戒・第三は不貪婬・第四は不妄語・第五は不酤酒・第六は不説過、第七は不毀自他、第八は慳法罪、第九は瞋恚・第十は不謗三宝」上来の十六条の仏戒、「某尼」に授け畢る、衆生仏戒を受け、即ち諸仏の位に入り、位大覚に同じのみ、これ真の諸仏子、嫡々相承着たりて実源、今獲麟に附す。」

 

史料F2 近世前期の亡者授戒の作法の「切紙」。(埼玉県長徳寺所蔵)

 

「亡者授戒の作法 また別法あり。

 三界六道化道済度の地蔵菩薩摩訶薩に奉請す。ただ願わくは道場に降臨して、菩薩清浄大戒を授け、(三返)。今日没故の「某(なにがし)」の亡者に、各各の「名」を入れ、汝が今身より仏身に至るまでよく持せ。南無帰依物・南無帰依法・南無帰依法、三返。帰依仏両足尊・帰依法離欲尊・帰依僧和合尊、三返。帰依仏竟・帰依法竟・帰依僧竟、三返。汝ら善男女人、三宝の前に対し、大懺悔をおこし、三返、摂律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒、よく持ちて、三返。上来の宿梵網心品を殊勲所集し、回向、真実実相、荘厳無上、仏果菩提(菩提のこと)・伏願、垂此戒一絲頓超受生於梨中、正覚於いて大涅槃岸に成ず。」(以下、「即通之参」は省略。)

 

史料F3 近世中期の墓所・中陰・年回などの亡者・追善供養の作法に冠する「切紙」。(埼玉県長徳寺所蔵)

「献霊供の切紙

まず本尊前に進みて焼香し、仏餇を献じ諷経す。次に維那導師に向い問訒して亡者の位牌の前に進み、焼香し生飯を取り、香烟の上に薫じ、点じて唱えて曰く、上は三宝に分け、中は師恩に報じ、下は六道に及び、みな同じく供養すと唱え了て、生飯を盤の側に置き、筯を飯上に挿し、念想して曰く、堅に三際に亘り、横に十方に窺む、次に点じて、亡者の法名を唱えて、眨眼注視して、また焼香し合掌して黙して唱えて曰く、三輪清浄・三輪空寂・三輪合観、と此の如く三たび唱え了て、転身して導師に向いて問訒して位に帰る。導師位牌の前に進みて、焼香観想して位に帰り一輯して、此の時の維那は経を挙げるなり。

 右嫡々相承大乗卍山和尚至吾矣、吾今伝秀叟、

   享保拾七壬子歳、附与す湛海丈」

<参考> 「授戒作僧」は社会的身分別 -「諸回向清規」の法名(位牌)規程-

 

 1566(永禄9)年に臨済宗夢窓派の清規と考えれている「諸回向清規」(『新修大正大蔵経』81巻)に在家に対する「授戒法名」・「没後作僧」のマニュアルが示されてる。『諸回向清規』巻4「僧俗男女位牌」の上頭・中・下につける文字についての規定が記されている。亡者の位牌にどのように戒名(法名)をどのように記すべきかである。「僧俗男女位牌之上頭文字」の中から位牌の上の文字の凡例を抜粋してみよう。

先ず、和尚の位牌の上の文字は「前住当山」、平僧の場合は「寂滅」・「遷叔」等と書き、太上法皇は「○○院」、将軍・一国の太守・国号の武士に対しては「○○院殿」・「○○官州名」、一般には「物故」・「帰故」・「逝去」・「過去」・「遷去」等を書き、山伏は「達故」と書くべしとある。

次に「僧俗男女位牌之中文字」の中から位牌の中位の文字の凡例を抜粋してみよう。開基あるいは国師・尊宿には「○○国師大和尚」、前住長老には「○○和尚大禅師」、平僧には「禅師」、参禅の武士には「居士」・「女居士」、武家には「信士」「信女」、高家武家には「大禅定門・尼」、平人には「禅定門・尼」、平人の奴僕には「禅門・尼」、小児には「童男・童子・童女」、山伏は「大徳」といった具合である。

位牌の下に書く「僧俗男女位牌之下文字」の凡例を抜粋してみよう。尊宿・一国之太守には「尊霊」、平僧・高位の武家は「覚霊」、皇家は「尊儀」、天下将軍は「臺霊」、平人には「霊位」、山伏には「叔山」、貴人の夫人には「叔儀」、女性には「叔魂」というように記せとある。  『諸回向清規』は、もとより戦国期の臨済五山における儀式書であるから、当時、五山に関与する、する可能性がある身分に応じた規定がなされていたものである。その際に、注目しなければならないのは、葬送にあたって「法名(戒名)」授与の方法が、亡者の生前の社会的身分に応じてなされていたという事実である。 『諸回向清規』は、臨済五山の儀式書であるから、想定される壇那の身分も限定されるが、禅が村落や都市に展開した場合に、当然、同じように多様な身分に応じた儀式が編成され、亡者の生前の社会的身分に応じてなさる限りにおいて差別「法名(戒名)」の発生は必然であった。

また、石川氏は駒沢大学図書館所蔵の、永平寺30世恵輪永明禅師(1670年没)の所伝本と目される『室内切紙謄写』に写された没後作僧の「切紙」(「差別切紙」と断定)を紹介している。(和漢混交文)

<参考> 「『諸回向清規』が定める葬送儀礼」(配布資料の一部を抄出)

『釈氏要覧』(宋 1020=天禧4年)巻下、「瞻病・送終」に、比丘・比丘尼の葬送儀礼・墓制が記されている。

詳細な葬儀の差定は記されていない。浄土教の臨終儀礼(看病・看死・来迎・正念等)を中心とする死の作法は成立しているが、葬送儀礼を中心とする仏式の死の作法が成立するのは、12世紀に成立した『禅苑清規』であり、大まかに「尊宿葬法」と「亡僧葬法」が規程されている。また、臨済禅(宗)=南禅寺派が、16世紀に定めた「諸回向清規」には、葬送儀礼に関する規程を詳細に記載している。

 

「禅苑清規」巻7

「小師龕幃の後幕下にあり、孝服を具し龕を守る、法堂の上に排了を安ず、喪主已下、真に礼しおわんぬ、然る後に知事頭首孝子大衆、喪主と相見える、喪主己下次第に相慰め、外人弔慰あるが如し、外に知客を引き堂上に到る、内に知客を引き真前において焼香し、礼に致りおわんぬ。喪主知事首座と相看て、来りて幕下に却りて、孝小師を慰む、」

「伏願、神浄域を超え、業塵労を謝し、蓮上品の華を開き、仏一生の記を授け、また云う、再び尊衆を労す、十方三世等に念ず」

<◎ 未完>

「1 問題の所在」 ~「葬儀」の歴史を知ることの目的~

A 『浄土真宗本願寺派葬儀規範集 

 1980年代前半まで、浄土真宗においても、葬送儀礼は各地域で相応の展開をとげ、一様なもではない状況があった。このような状況のもとで、本願寺派では、日常の門徒への宗派の顔ともいえる葬送儀礼が、「所変われば品変わる…」、「郷に入っては郷に従え…」という地方ルールが幅を利かせている事態への改革に着手した。

  編纂の過程については公表されたわけではないから類推するしかないが、なんとか「葬場勤行」の規範を、1986年初版の『浄土真宗本願寺派葬儀規範集』(以下『規範集』86年版と略称)、出版にこぎ着けた。その後、宗派の規範として依用されるに至っていると判断できる。かくあるべし、といいにくい分野での指針作り、さぞ骨折りであったと類推される。1980年代後半に中世真宗の死の作法を、葬送儀礼から考えようとした際に、ほとんど、読むに堪えるだけの研究論文は皆無であった。

  なんとか「葬場勤行」の規範を、1986年初版の『浄土真宗本願寺派葬儀規範集』(以下『規範集』86年版と略称)、出版にこぎ着けた。その後、宗派の規範として依用されるに至っていると判断できる。(1986年初版 『浄土真宗本願寺派葬儀規範集』)

  従って、いくつかの疑義は覚えつつも、「86年版 葬儀規範集」は、1982年「法式調査研究委員会」(宗門発展計画の一部門)の労作といってよい。往時の委員が、その後において編纂過程を大まかでもよいから明確にしておいてと感じた。

 「86年版 葬儀規範集」は、自らの調査・編集目的を「「生涯聞法に関連する儀式についての調査研究」であるとしている。とすれば、、その後において、宗門から、「初参式」・「入門式」「帰敬式」・「結婚式」・「通夜」・「葬儀」・「中陰」・「年回」…、と展開していくはずであると考えるのはわたくしだけであろうか。「葬儀」に関する規範集のみで終わっているのが現状である。ただし、限界は特色であるから、葬送儀礼に関わる比重の高さがうかがい知れることになる。

 この点を示唆するように、「1986年版 葬儀規範集」の「後記」『規範集』(P153)には、1980年代前半に行われた「法要儀礼の近代化」についての調査・研究の成果を踏まえ編集・出版であることも明記されている。

 以下、4点に現行の『規範集』の意義(特色と限界)としてまとめておこう。

イ 生涯・聞法に関連する儀礼としての「(人生最後の儀式)葬儀」 = 人生の最期に仏縁を深める報謝の仏事 = 葬儀は仏縁を深める人生最後の報謝の仏事という「聞法生涯の仏事としての位置づけ」 ロ 正規の勤式を実践することにより衆目の範とする = 宗派の儀礼としての勤式作法の整備 = 宗派の「勤式作法」の実践 = 生涯聞法の儀式として位置づけ ハ 各地に行われる風習・世俗の習慣・迷信からの脱却 = 宗派の教えと儀礼(勤め)の正しい実践 = 生涯聞法の実践として位置づけ ニ 八代蓮如宗主の葬儀に準拠 = 生涯聞法の儀式という「伝統」の出拠 = 本願寺派「勤式作法」の淵源は蓮如宗主の時代

(以下 続稿 レジュメの改版)

B 『1986年版 規範集』の意義イ 法要・儀礼の現代化 ⇔ 生涯聞法に関連する儀式の策定作業

ロ 帰敬式の改正から始まり、葬儀に着手 ⇔ 宗門発展計画として調査・研究

ハ 編集・発行が宗門(法式調査委員会・勤式指導所・本願寺出版社) ⇔ 宗派としての編集・発行(儀礼・作法の「仕様策定」として重要

 

C 「考える視点」

 2 「法要の現代化」といった場合における「現代」という背景の内実は?

 

宗派性と関連が薄い社会事情(社会現象) ⇒ 1990年以降、「葬送儀礼・墓制」に関わる研究成果が民俗学社会学歴史学分野で多数存在し、背景分析が可能になってきている。

  •  「葬儀」が行われるインフラの変化(法規・交通・設備・埋葬方法…) ※ 社葬・団体葬友人葬家族葬直葬・お別れ会…、」といった多様化・個性化のなかで

a「葬儀」のモータリゼーション(霊柩車の普及)  ⇒ 機動(牽引車)付の「霊柩車」の発達により「葬列」が消滅 

 b 葬列の消滅、火屋勤行の比重低下・衰微⇒ 参列(会葬)者は会館・自宅での出棺・葬儀までという参列法穂の変化し、「葬場勤行」が中心となってゆく

c 住宅環境の変化 ⇒ 過疎化・都市化に伴う自宅での葬儀の減少 =葬儀会館での通夜・葬儀が一般化

d 「法規」(条例・省庁の通達)による火葬の標準化 ⇒ 土葬、あるいは土葬後の改葬を前提とする「両墓制」の減少

  •  「葬儀」を支えた社会集団の変化、あるいは解体

e 遺族・親族と参列(会葬)者の乖離現象 ⇒ 故人が所属する社会集団(団体)を遺族が周知するわけではない = 社葬・団体葬では遺族は参列(会葬)者と、喪主であっても初初対面が一般化し珍しい光景ではない

    • 密葬・本葬(社葬を代表に)の社会集団葬は、個性を重視する風潮の2傾向 ⇒ 家族葬か社葬、形式(対面)あるいは個性重視か?といった「葬送」論を惹起

f 地域集団の執行主体から個人の所属した社会集団へ ⇒ 企業・団体の「総務」担当者の業務 = 業務である以上は失敗は許されない(勤務としての葬儀)

    •  遺族(喪主)・執行主体(総務担当者)の双方から依頼される「エージェント(代理・代行業)」としての「葬送業者・社」の役割が増大

g 高齢化社会の登場は、死亡時における社会集団より離脱・疎遠となり、すでに地域集団の役割は終焉 ⇒ 親族・地域集団に頼らない葬儀 = 喪主・遺族から依頼を受けた「エージェンシー」として執行主体は「葬儀社」の役割化

h 知らない集団・面識のない個人が参加する儀礼 ⇒ 社会集団中心の葬儀は、不特定・未知の人々の参列が一般化する ⇒ 総務が取り仕切り、エージェント(葬儀社)が執行し、見知らぬ参列者をさばく「会場・司会・進行」役として活躍。(エージェントの範囲は、遺体の搬送・死亡届・関係者への連絡・通夜・葬儀・火葬・初七日・中陰・初盆まで…の葬送に関する一切の世話)

  •  死生観(遺体・遺骨まで含めた)の変動 ← 現代民俗学社会学・実践宗教学研究が提出するデータから

i 死生観の現代化 ⇒ 医学・生命観の変化に対する「既成宗教・仏教教団」の未対応・放置(浄土・極楽・来世・あの世…の喪失状況)j 個性・個人を重視する人間的価値観 ⇒ 既成の儀式・儀礼への価値意識の低下

  • 個性が重視されるなかで、既成宗教の葬儀は個性否定と受け止められる

k 仏教界(伝統宗教界)への無関心 ⇒ お寺・仏教界への無関心=葬儀・お墓の「費用」のみに加重する見方と寺院の「外見」l 格差(差別)助長主義への反感 ⇒ 拝金主義への反感から、お葬式(法戒名)はいらないという「遺言」作成

 

D 以下の諸論の目的

 

 以上の前提を確認したうえで、ここでは、浄土真宗本願寺派の勤式・作法(以下では、儀礼と便宜上に呼ぶ)のなかで「葬儀・中陰・年回」の占める位置は大きい。ところが、大切であると認識しながら、真宗史・本願寺教団史において、葬送儀礼の淵源と沿革を史料を正確に、かつその宗義上の意味づけを考察した研究は少ないのが現状である。さらに、真宗史・本願寺史研究において葬送儀礼に対して関心が及ばない事情の要因に、真宗という宗派が、民間信仰あるいは民俗行事に対して非寛容・改革的な姿勢を持つと前提的に理解されていたため、真宗の葬送儀礼に関する研究は立ち遅れたのが現状である。本講の目的は、浄土真宗本願寺派の法式規範で示される門信徒の葬儀作法(『葬儀規範勤式集』)、現在の葬送儀礼に至る淵源と変遷を分析する。また、分析の対象とする時代と対象は、インド・中国を前史として、本願寺の草創期から、教団の素形が形成されると考えられる中世戦国期における葬送儀礼が中心となる。 

 また、加地伸行『沈黙の宗教』(1994年初版、2011年にちくま学芸文庫)、菊池章太『葬儀と日本人』(2011年 ちくま新書)が刊行され葬儀に関する社会からの注目も高い。また、マスコミでは、「自然葬」・「家族葬」・「直葬」「永代供養墓」から始まり、議論の行方には「無縁社会」などという問題提起もあった。 本講では、簡単に結論が出せるわけもない「葬送儀礼」の今日的課題・在り方についての議論を豊かなものにするために、ささやかながら私が集めた資料と、若干の議論を提示してみたい。

 

※注 現在の葬送儀礼論では、浄土真宗定型外・規格外の葬制・墓制として扱おうとする傾向が強い。(書店などで販売し、葬儀参列にあたり市民が参考にする儀礼・作法集)

 

 

福岡組法式部(研修会) 「人類はなぜ埋葬するのか」 -~仏教の中での葬儀の意義 その2~

3 義浄が伝えたインド仏教の葬制 

  ~「南海寄帰内法傳」と「無常経」の訳出~

 

A 義浄による『無常経』請来(漢訳)の意義

 ㋑ 仏式による葬送儀礼の提案

 

 インド仏教は、「無常経」を中心とする、出家者に対する「葬送儀礼」として誦経用経典を伝承していた。この、中国(唐代)に至っても仏教教団は、仏式独自の葬送儀礼や誦経用経典を所持しておらず、大まかな言い方をすれば、儒教の服喪儀礼を依拠しながら「葬送儀礼」を展開していた。唐代に至り、インド伝来の仏式葬儀の導入・運動が生じ僧尼(出家者)の「葬送儀礼」が成立してくる。具体的には、「七七日・中陰」の提案が、儒式の服喪からの独立させ、「無常経」という葬送儀礼用の経典が訳出される。

 

<注記> ㋑ 無常経」は、訳出後に遣唐使を通じて、すでに日本へ8世紀中に伝来したと考えられている。(岡部和雄)仏典の古代における日本への伝来は、以外に早い。例えば、道昭(奈良・大安寺)が請来した経典の目録には、善導「五部九巻」が請来しているという。(中井真孝) ㋺ ただし、出家者(僧尼)・寺院内に限定されている。(在家仏教徒の葬儀については未関説。)

 <参考史料> 義浄撰、宮林昭彦・加藤栄司訳『現代語訳 南海寄帰内法伝』2004年 法蔵館 P149以下>中国仏教喪制の非 仏教的展開、(インドとは異なり、中国では)死後の際に漫りに(中国の伝統に則った儒教風の葬送儀礼)礼儀を設けている。(それはたとえば、)或いは復俗(儒)と同じく哀しむ(様を人に見せ自分は親を失ったのだと誇示する)ことをもって(親に)孝(をつくす)子と為ることであり、或いは房に霊机(、すなわち儒教風の祭壇)を設けることをもって供養と作ていることなどである。(また、それは)或いは黲布を披っていることで(自分の状態が親の不幸にあって)恒式とは乖ったいる(ことを示す)ことであり、或いは長髪を留めて(髪も髭も茫々、身体髪膚を父母に受け、その父母を亡くして、今その恩を噛み締めていることを人に示し、これまた恒常の生活の中の規)則とは異なる(状態にあることを表す)ことであり、或いは(悲しみのあまり身体弱り)哭杖で(身体を)拄え(なくてはならない様を人に示したり)、或いは(寝所を別にして、わざわざ)苫(莚のある喪服用の仮小屋である倚)蘆に寝る(等々のことをする)のである。斯れ等(のこと)は咸(中国の儒教の伝統に基づく葬送法なのであって、インドの仏教本来の)教(誡・律)儀ではなく、(さればこのようなことは仏者としては、当然ながら)行わなくとも過ちはないのである。

(では、仏者としてなすべき葬法とはどのようなものなのだろうか?インド仏教本来の葬送法の正則とはどのようなものかといえば、道)理として、其の()亡者の為に一房を浄らかにこそ飾るべきなのである。或いは時に随って権に()蓋や()幔を施し、読経、念仏し、具に香や花を設けて、亡魂を善処(浄土)に託生させようと冀うのである。(このようにしてこそ、儒教でいう孝子・報恩の定義はいざ知らず、仏教では)方(始)めて孝子と成るのであり、(方)始めて(父母)の恩に報いることになるのである。

 豈可(儒教に言う孝子の様式たる)“泣血三年(血涙を絞り声無きこと三年、歯を見せて笑うことすらしない)”を将って(父母の)徳に賽いることに為り、“不餐七日(亡くなって七日間、食事をとらない)”にして(方)始めて(父母の恩)に報いるに符う(などといえる)のだろうか(? 否、言うまでもなく、そのようなはずはないのだ)。斯(のような儒教風の葬送儀礼)は重ねて塵労を結び、更に(一層迷いの)枷・鎖を嬰らす(ことにしかならない)のだ。(このような中国の仏者は、)闇から闇に入り(小乗羅漢の)縁起の三節(過去・現在・未来の三世にわたり各自の背負った業が因となり果となる両重の法)を悟りはしないし、死より死に趣くなどして詎して(大乗菩薩の)円成の十地(菩薩・仏の十段階・十世界、すなわち①歓喜地、②離垢地、③発光地、④焔慧地、⑤難勝地、⑥現前地、⑦遠行地、⑧不動地、⑨善慧地、⑩法雲地)を証らめるだろうか。(否、とても菩薩の十地を証らめなどしてはいないのである)。

 インド仏教喪制の正則 然し仏(の)教(え)に依るならば、(葬送の儀礼は、まず第一に)苾蒭の(死)亡者が決らず死んでいる(や否や)を観(て)知る(、にはじまる)。(葬儀の)当日は(死体を)舁いで焼処に向かい、ついで火で之を焚く。之(の死体)を焼く時に当たっては親友が咸集まって(、傍らの)一辺に座る。(その座処はと言えば、)或は草を結んで(台)座と為し、或いは土を聚めて台(座)と為し、或いは(焼いた煉瓦の) )甎石を置いて座物に充(当)てる(などしている)のである。 (その次に、)一人の能者に『無常経』を(読)誦させる。(この経は小さいもので)半紙か一紙(程度)、(中国のように読誦が長時間に及び、参列者)を疲久させるようなことはない。

  <義浄の原注>

 其の経(『無常経』は別に録して、(本書に)附して(、ともども献)上する(こととしたい)。その後で、各(自)が無常(死)を念いつつ住処に還帰る。(しかし、自房に入る以前に)寺外の(洗浴)池の内で衣を連ねて並(洗)浴する。(このような専用の洗浴)の池の無い処では、井(戸)にいって身(体)を洗う。(そのため、中国とは異なりインドの葬儀には)皆故(ふる)衣を(著)用してゆくのであり、新(造の)服を損なうようなことはないのである。(洗浴の後、)、別に乾いたものを著て、然後(、はじめて各自の房に帰る(ことになる)。

 (その各自の房も床部分)地は牛糞(ごふん)で浄塗しておくが、(中国伝統の儒教風厚葬とは異なり、インドでは以上の)余は並皆(葬儀以前の日常生活に変わるところはなく、)故の如りなのである。(すなわちインドでは中国とは違い、服喪に関わる)衣服の儀も、(服喪中だからといって殊更に喪服に改めるなぞなく、いまだ)かつては片しも(普段の生活と)別(異)のことはないのである。

 (火葬の後には)或いは設(せつ)利(り)羅(ら)(sarira 骨)、を収めて、(死)亡人の為に塔を造ることもある。(これは)倶攞(くら)kula 塚)と名づけられ、形(状)は小塔の如である。(この小塔)の上に輪蓋は無く、しかも塔には(、その死亡苾蒭による格づけがあり、凡夫善人から如来までの)凡(夫)・聖(人)の(区)別があるのである。(これについては)律(蔵)のなかで広く論じている。

 

中国仏教者への提言 豈容して釈父の聖教を棄てて周公(すなわち儒教)の俗礼を遂い、号咷数月(泣き叫ぶこと数カ月)、布服三年(喪服を着ること三年)、などということをするのであろうか(否、このような儒教儀礼は、仏者ならばすべきでないのである)。

かつて(私・義浄)は、霊裕祐師(518~605)が(如上の儒教風葬儀礼を自、他に)挙発(おこない・おこなわせる)ことをせず、(儒教儀礼にいう)孝衣は著ずに(仏の教えに従って故人、すなわち)先亡を追念して(釈父の聖教に則った)福業を修めたと(、母国中国にあったときに)聞いたことがる。京洛(、すなわち洛陽)の諸師にもまた斯の(霊祐法師の途)轍に遵ったものがあったのでる。(が、しかし)或る人はこれを(中国の伝統文化よりして)非孝に以為うのかもしれないが、(その人)は寧して更に(この霊祐法師のように儒教風葬送を排して、仏者として振る舞ったことこそが、釈父の聖教、釈迦金口(こんく)の)律(蔵に記されている)旨(趣)に符っていることを知っているのだろうか(否、決して知りはしないのである。)

 

B 義浄の仏式による葬儀の普及運動

 義浄の「無常経」による葬送儀礼の紹介以降、インドから伝来した葬送儀礼は、僧尼を対象とするものであり、在家仏教徒の葬送儀礼は伝来しなかった、あるいは、存在しないと意識されていた。従って、義浄が行った仏式による葬送儀礼の普及運動は、出家者(僧尼)・寺院内に限定される限界を有してした。

戦国期真宗教団は、禅の葬送の作法に七尾ながら蓮如教団において定型化した儀礼を形成した。戦国期の史料を検討すると、「作僧(作相)」と正信偈の読誦・読誦中の焼香を基本としていた。(「臨終・葬送・納骨」『戦国期真宗の歴史像』1992)

「無常経・臨終方訣(ほうけつ)」は、インドで紀元前後に成立した経典に「無常経」があって、上座部(部派)仏教において葬送儀礼を目的に編纂された経典であると考えられている。(岡部和雄)中国(宋代=12世紀頃)に「無常経」に当時の中国の民間で行われていた臨終儀礼のマニュアル書である「臨終方訣」が付け加えられ、「仏説無常経臨終方訣」という一巻の経典になった。中国式の臨終儀礼が、ブッダ(釈尊釈迦牟尼如来)の直説(仏説=ブッダの説法)による、という権威化が行われ、鎌倉時代禅宗とともに日本へ伝来した。インドから伝来した「仏説 無常経」は、紀元前後にインドで出家者(僧侶)の葬儀・中蔭の際に読経された経典である。中国には、唐代(7世紀中頃)に、義浄(三蔵法師)により請来され漢訳され、葬儀用の経典として使用された。「無常経」は、内容的には「諸行無常」を説く短い経典で、儀式や作法については全くふれていない。ただし、義浄のインド紀行記『南海寄帰内法伝』には、「無常経」の読誦を中心とした南インドの寺院における葬送の様子が記されている。

  <資料>

義浄が記したインドの葬儀

 

○   インド(ナーランダ寺院周辺の仏教、出家者)の葬儀では、亡き人のために、臨終にあったっては、亡者の房室を清浄に飾ることを基本とする。

 

<臨終の儀礼

①   臨時に天蓋・幔幕を遺体の上部に施す、②臨終にあたり経典を読誦・念仏、②香と花を設ける。(霊魂の善処への託生を冀うため)

 

火葬・無常経の読誦・帰宅後の沐浴

<葬送の儀礼

①   亡者の死亡を観て確認、②死体をかついで焼処へ、③火で遺体を焼く、④焼くにあたっては、親友が咸あつまって傍らの一辺に座る(座処は、草を結び座となし、土を集めて台座となし、焼煉瓦で座物に充てる、④一人の能者に『無常経』を読誦させる。⑤帰宅後は、衣服を洗濯し沐浴する。

<納骨・造塔>

  骨(設利羅=sari-ra) を収めて、亡人のために塔を造る。これは倶羅(kula=塚)と名付けられ、形状は小塔の如くである。ただし、塔の上には輪蓋はなく、死亡した苾蒭による格付けがある。(凡夫・善人から如来までの区別があり律蔵に詳しい。)

義浄が記したインドの葬儀

  • インド(ナーランダ寺院周辺の仏教、出家者)の葬儀では、亡き人のために、臨終にあったっては、亡者の房室を清浄に飾ることを基本とする。

 

  • 臨時に天蓋・幔幕を遺体の上部に施す、②臨終にあたり経典を読誦・念仏、②香と花を設ける。(霊魂の善処への託生を冀うため)。

 

火葬・無常経の読誦・帰宅後の沐浴

<葬送の儀礼

  • 亡者の死亡を観て確認、②死体をかついで焼処へ、③火で遺体を焼く、④焼くにあたっては、親友が咸あつまって傍らの一辺に座る(座処は、草を結び座となし、土を集めて台座となし、焼煉瓦で座物に充てる、④一人の能者に『無常経』を読誦させる。⑤帰宅後は、衣服を洗濯し沐浴する。

 

<納骨・造塔>

  • 骨(設利羅=sari-ra) を収めて、亡人のために塔を造る。これは倶羅(kula=塚)と名付けられ、形状は小塔の如くである。ただし、塔の上には輪蓋はなく、死亡した苾蒭による格付けがある。(凡夫・善人から如来までの区別があり律蔵に詳しい。)

 

(以下、続稿)

里山文化論・里山資本主義への疑義 -とくに里山は開発された人造世界であることを踏まえて-

 

 

 近代以前(江戸時代)に、話たちが生きる列島社会は、里山・里村という村落警官作り上げます。里山は、造林した落葉樹に包まれ、大堤防に護られた小川(用水路)が張り巡らされ、ため池を貯えた田畑・家禽を風景とする人造のムラです。河川改修・堤防建設・灌漑工事で整えられた人造世界にムラ・マチが建設されたわけです。

 私たちは、現在の村落景観が、耕地の開発による人造世界であることを、どの程度自覚しているであろうか。河川の改修・堤防は耕地を開墾し、そこには、ため池や耕地へは農業・生活用水を確保するために、細微にわたり灌漑用水が張り巡らされた。耕地は同時に人々の移住につながりムラが形成されたわけです。ムラの周囲には、薪炭腐葉土をつくるための雑木林(人工林)が造成され、「里山」・「里村」と呼ばれる村落景観、一種の人造的な生態系が成立しました。近世後期には、里山・里村は、列島社会のごく普通に見られる村落景観となった

つまり、よく知られている「春の小川はさらさラ…」は、1912年の文部省唱歌として発表された「春の小川」はそのような里山を愛でた唱歌であったといえます。の唱歌で流れる小川は、農業用水路であるから人造施設なわけです。耕作地が自然に形成されるはずはなく、人の手が加わり、長い年月をかけて開発された「里村」は、耕作地の潅漑施設である。その人造世界に作られたのが里山・里村世界であり、ムラという総合生産施設であったわけです。里山建設に当たっては、河川の流れ、灌漑用水・ため池を造り、薪炭腐葉土生産の雑木林、田畑というムラ開発で成り立ちます。

 話を本題に急ぐと、自然に手を加え人造社会には、必然的に開発に伴う環境破壊が伏在しました。一部の里村では、感染症の原因となる寄生生物を育てる温床も増幅されました。現在の日本国内では、感染症の原因となる寄生生物の対策も取られ、風土病・地方病といわれた感染症の根絶が近づいたという声もあります。

(以下、続稿)

以下、

2013219(火)福岡組法式部(研修会) 於専立寺

「人類はなぜ埋葬するか」

  ~仏教の中での葬儀の意義~

<目 次>

 

1.「問題の所在」

  ~「葬儀」の歴史を知ることの意味~

( 今回は、改稿の準備のために留保・未発表)

 

2.「インドにおける仏教独自の葬送儀礼は未発達」

 

3.「義浄が伝えたインドの葬制(葬送儀礼)」

 

  ~『南海寄帰内法伝』と『無常経』の訳出~

 

4.義浄の仏式葬儀普及運動の特色と限界

  ~『無常経・臨終方訣』の世界~

 

  • 配布資料 

 

(A) 「緒言」・「後記」『浄土真宗本願寺派葬儀規範集』(昭和61=1986年初版の抜粋)

 

(B) 『ブッダ最後の旅』~大バリニバーナ経~(中村 元訳 一部=関連部分)

 

(C)① 『大唐西域記』(水谷真成訳 一部=関連部分)

 ② 義浄『南海寄帰内法伝』(漢文の書き下し。現代語訳は「要旨」編 P7以下。一部=関連部分)

 

(D) 『無常経・臨終方訣』(伝義浄訳、「臨終方訣」のみ書き下し)

 

(E) 「葬儀」をめぐる習俗・俗説・迷信「用語解説集」(№1 暫定版)

 

2.「インドにおける仏教独自の葬送儀礼は未発達」

A 伝承されている原始仏教の葬儀観

 ここでは、現在に履行されている浄土真宗本願寺派の「葬儀(葬送儀礼)を理解するために、わたくしが必要と考えたインド仏教においての葬送儀礼を工具刷する。したがって、特色と限界は、浄土真宗本願寺派から見てうえでの、本願寺派史観に基づいての議論であり、極めて、本日(福岡教区福岡組法式部 研修会)も真宗仏教の儀礼を足掛かりにsていることは言明しておく必要がある。

 インド仏教というよりは、仏教という宗教の開祖ブッダ釈尊)の葬送をどのように伝承してきたのか、から見ておくこととする。

 

ブッダの葬送儀礼であるから、わたくしたちが注目してみてきたのが、『ブッダ最後の旅』~大パリニッバーナ経~(中村 元訳 岩波文庫 1980年 P131以下、172以下) 、「涅槃経」である。「涅槃」とい経典は異本が多く伝えられ、そこから事例を引き出すこと自体は難しいものと考えられる。ここではあえて中村 元訳のものに依拠し、現在の私たちからみて最も至便といkとからである。

ブッダ(釈尊)の死去(涅槃)の際に行われた「死後の儀式」の叙述がある。特に、釈尊の遺言(遺訓)として次のように伝える。(いわゆる「原始涅槃経」のブッダの葬送)個条書きにすると次のようになる。

 

(A) 出家の弟子たちは、遺骨の供養(崇拝)にこだわらず、修行に集中すべきであると遺訓

(B) 遺骨の供養・崇拝は、熱心でかつ富裕で有力な信者(在家)によって行われる。

(C) 火葬(遺体の処理)は、インド(現世)を支配する転輪聖王(帝王)と同じく、一般的に丁重な火葬・埋葬の方法とする

(D) 出家者の仏弟子は、火葬し収骨した後、遺骨は各地(各地域)の中心地にストウーパ(塔)を建立し供養(崇拝)する

(E) 在家信者は、ストウーパ(塔)に、花輪・香料・顔料をささげて礼拝する。在家信者の、塔(遺骨)を供養(崇拝)し心静かに信ずる人びとには、長い間の利益・幸せがもたらされる。

 

 

 

B ブッダの火葬について(『ブッダ最後の旅』P173)

 

次に、ブッダのの荼毘(火葬)についての叙述である。

 

イ マッラ族、祠堂(マッラ族の葬送の場)の前において、火葬のために薪が積み上げられる。

ロ 代表一人が、衣を左肩から体にかけて合掌し、薪の上のブッダの遺体に対して3回にわたり、右まわりにして、遺体の衣の裾をめくり、ブッダの足に頭をつけた。

ハ 代表に続いて、500人の参列した出家修行者が、代表と同じようにブッダの遺体に対して礼拝を行った。

ニ 尊者カッサバと修行者の礼拝が終わったときに、ブッダの遺体が安置された積み上げられた薪が燃え上がった。C ブッダの遺骨について(『ブッダ最後の旅』P174)

 さらに火葬後の収骨については、次のようにしている。

 

あ 収骨の様子は、ブッダの火葬による各地へのストウーパ(塔)の造立を知った各地の有力者たちは、遺骨の分配とストウーパの造立を申し出る。『ブッダ最後の旅』「26章 遺骨の分配と崇拝」によると、次の通りに分配された。

収骨の様子は、ブッダの遺骨を収容したストウパ(塔)を各地の中心地に造立しようとことを知った有力な弟子たちが、次のとおりに遺骨の分配を申しでた。

  1. ⇒ マガタ国ヴィハーディ王の王女アジャサットウ、②⇒ヴェーサリーに住むリッチャヴ族、③⇒ カピラ城のサーキヤ族、④⇒ アッラカッパのブリ族、⑤⇒ ラーマ村のコーリヤ族、⑥⇒ ヴェタディーバに住むバラモン、⑦⇒ バーヴァーのマッラ族、である。
  2. 従って、2人の個人と(マガタ王女マジャータサウトウとヴィタディノバのバラモン、と5部族(リッチヴァ族・サーキヤ族・ブリ族・コーリヤ族・マッラ族(クシナガラのマッラ族とは別)が、遺骨の分配とストウパ(塔)造立を要求する。

とことが、クシナーラのマッラ族は、自分たちの土地(村)でブッダが亡くなったことから、遺骨の分配を拒むことを表明。

(う) この要求が行われた時に、ドーナ・バラモンが仲裁に入り、最上の人(ブッダ)の遺骨のために人びとが争うのはよくない。故に、皆で一致協力しよろこび合って分配することを提案した。その結果に、

最終的に遺骨の分配方法は次のように決定したと伝える。

 

マガタ国王女、②⇒ヴェーサリーのリッチャヴ族、③⇒ カピラ城のサーキヤ族、④⇒ アッラカッパのブリ族、⑤⇒ ラーマ村のコーリヤ族、⑥⇒ ヴェタディーバのバラモン、⑦⇒ バーヴァーのマッラ族、⑧クシナガラのマッラ族の計8其のストウパ(塔)、⑨⇒ ドーナ・バラモンは瓶のストウパ、⑩⇒ ピッパリのモーリヤ族は灰のストウパ、

 

つまり、8塔・1瓶・1灰の計10に分配されたというものである。

 という内容になる。

 

C ブッダの遺骨について(『ブッダ最後の旅』P174)

 さらに火葬後の収骨については、次のようにしている。

 

あ 収骨の様子は、ブッダの火葬による各地へのストウーパ(塔)の造立を知った各地の有力者たちは、遺骨の分配とストウーパの造立を申し出る。『ブッダ最後の旅』「26章 遺骨の分配と崇拝」によると、次の通りに分配された。

収骨の様子は、ブッダの遺骨を収容したストウパ(塔)を各地の中心地に造立しようとことを知った有力な弟子たちが、次のとおりに遺骨の分配を申しでた。

  1. ⇒ マガタ国ヴィハーディ王の王女アジャサットウ、②⇒ヴェーサリーに住むリッチャヴ族、③⇒ カピラ城のサーキヤ族、④⇒ アッラカッパのブリ族、⑤⇒ ラーマ村のコーリヤ族、⑥⇒ ヴェタディーバに住むバラモン、⑦⇒ バーヴァーのマッラ族、である。
  2. 従って、2人の個人と(マガタ王女マジャータサウトウとヴィタディノバのバラモン、と5部族(リッチヴァ族・サーキヤ族・ブリ族・コーリヤ族・マッラ族(クシナガラのマッラ族とは別)が、遺骨の分配とストウパ(塔)造立を要求する。

とことが、クシナーラのマッラ族は、自分たちの土地(村)でブッダが亡くなったことから、遺骨の分配を拒むことを表明。

(う) この要求が行われた時に、ドーナ・バラモンが仲裁に入り、最上の人(ブッダ)の遺骨のために人びとが争うのはよくない。故に、皆で一致協力しよろこび合って分配することを提案した。その結果に、

最終的に遺骨の分配方法は次のように決定したと伝える。

 

マガタ国王女、②⇒ヴェーサリーのリッチャヴ族、③⇒ カピラ城のサーキヤ族、④⇒ アッラカッパのブリ族、⑤⇒ ラーマ村のコーリヤ族、⑥⇒ ヴェタディーバのバラモン、⑦⇒ バーヴァーのマッラ族、⑧クシナガラのマッラ族の計8其のストウパ(塔)、⑨⇒ ドーナ・バラモンは瓶のストウパ、⑩⇒ ピッパリのモーリヤ族は灰のストウパ、

 

つまり、8塔・1瓶・1灰の計10に分配されたというものである。

 

D 『ブッダ最後の旅』が伝える釈尊の葬儀とは 

~どのような伝承として読むべきか~

翻訳者中村元「解題」・「訳注」によれば、「経典」という、あくまで主人公ブッダの物語を基調にしていて、物語である以上は「歴史的真実性に乏しい」という限界を意識しながらも、ブッダ仏弟子に自らの涅槃(死去)に際する際の指示・教示として、「正しい目的のために努力せよ」(『ブッダ最後の旅』本文P132)への訳注に、「仏教の修行僧は、自分の収容につとめることだけせよ。葬儀などやるな、という思想は原始仏教経典にまま散見するが、ここにも現れているのである。またブッダの遺骨崇拝も世俗人のやることであり、出家修行僧のかかずらうことではないと考えていた」(P280の訳注=第5章、18節「病い重し」)

 原始仏教において、中村元は、

 

 a 出家修行僧は、葬送儀礼に対して冷淡な態度を取り、独自の儀礼・作法は存在しない。

 b ブッダ(仏陀)の荼毘は、ストウーパの造立や供養は在家信者によって行われ、出家修行者たちは布施(信心と供養)の対象として招かれた。

 c 原始仏教において、独自の葬送儀礼はなく、インド古代のバラモン(司祭身分)、あるいはクシャトリア(権力支配身分)の葬法により応用された

 

という見通し(推定)を述べられた。(「解題」『ブッダ最後の旅』) ⇒ <補注参照>

 

 <補注> 静谷正雄{原始大乗仏教論}とも合致し、インド古代仏教史では異論が少なく大方承認されたものといえる。

 

 イ 大乗仏教の始原を、ブッダ在世中の非出家者=在家信者集団と想定。 ⇒ 葬儀を重視する社会集団(在家仏教信者集団)

 

 ロ とくに仏陀の死にあたっては、その対応に出家者集団と、その大きな温度差を持つ。 ⇒ 出家者集団からの自立した信者集団=原始大乗の存在・成立へ

 

 ハ 在家信者集団、特にブッダ死去(火葬)後の特色

  ㊀ 釈尊仏陀への「全人格的思慕」⇒ 造塔供養からはじまり、仏陀の教え・身体的特質・を全人格に表現する「仏身」(信仰の造形的表現)を求める

 

  ㊁ 仏陀の遺品(骨灰)への敬慕・崇拝⇒ ストウパ・舎利の造立と、それ自体への「信心(礼拝)と供養(布施)」

 

  ㊂ 仏塔(ストウパ)の崇拝と護持のために出家修行者への「布施」⇒ 在家信者からの「布施」に対して、出家者は経典読誦・説法・儀礼の執行…のといった宗教行為・儀礼を執行・提供 ⇐ インド古代仏教史では、出家者の系譜は、根本説一切有部(上座部仏教小乗仏教の淵源)の一派へと展開したと考える

 

E 三蔵たちの報告に見るインド仏教の葬送儀礼

  • 前節で述べたとおり、義浄(635~713年)は、スマトラ島(現 インドネシア)へ滞在中に「南海寄帰内法伝」を期し、インド仏教の葬制を中国に普及させようと「報告」⇒ 南インド(滞在・留学)時の見聞と研究・実習の結果 ⇐中国の非仏教的葬制を廃し、「無常経」による葬制を紹介し普及させようと企図した。

 

a インドの僧たちは、中国儒教儀礼解説書である「礼記」(紀元頃に成立)「喪大器」の「哭礼」といった儀式は定められいない。

b 出家者の父母の死にあたっては、父母(生)の恩に報いるという思いは大切にされている。

c 葬儀は丁重に行われる。儀式は故人の冥福のために行われる。

  • <7~8世紀の入印僧の報告>

 

イ 中国、「儒教」の葬制と比較して、異なった点が多く質素である

 ロ 出家者に対する葬儀の記述のみしか見当たらない(インドの在家仏教徒の葬送儀礼については関説がないので不明である)。

 

 ハ 出家修行僧の葬送儀礼については記述がある⇒ 無常経・荼毘(火葬)・造塔(収骨)

少なくとも7C段階のインド仏教(もっとも8世紀頃から、仏教自体がインド社会において衰退)

⇒ 仏教独自の葬制は未発達といえる

⇒ 出家者対象の「無常経」が葬送用読誦経典として流布

⇒ 在家信者の葬制は、インド社会(ヒンドゥー世界)の葬制に従っていた可能性大

見真大師」号と「勅額」

見真大師」号と「勅額」 浄土真宗の宗祖である親鸞は、1876(明治9)年11月28日に「見真」の大師号の宣下を太政官より受ける。見真なる大師号は、明治政府へ東西本願寺専修寺仏光寺興正寺錦織寺真宗六派の住職が連名し内願し、明治天皇より贈られた「諡号」である。東西本願寺は、1879年9月29日に明治天皇の「見真大師」を宸毫による額の下賜を受ける。天皇の宸毫を額装したものであるため、政府は「勅額」と名付けて下賜した。そして、現在の東西本願寺の御影堂に奉懸されている勅額は、明治天皇の宸毫をもとに作成された複製である。1882年3月22日に宮内省より、天皇の印璽(「御名御璽」)の押印を受けることにより、明治天皇の宸毫をもとに製作された勅額であるという認可を受け、東西本願寺の御影堂外陣正面に奉懸された。高田専修寺もこれに続いた。

 さて、見真大師については、東本願寺では1981年の「宗憲」改正の際に大師号の使用が廃止され、西本願寺でも2007年の「教章(私の歩む道)」において使用が停止された。ともに「見真大師」という親鸞に贈られた諡号に問題性を見てとっての措置であると思慮される。残念ながら、東西本願寺の宗政当局から、宗祖である親鸞明治天皇より、個人の業績を讃えるために尊称として贈られた諡号である見真大師使用停止の事情の説明はなされていない。ここでは、なにゆえに見真大師という天皇よりの諡号浄土真宗の宗祖に贈られた尊称・別称として不適切だと思慮されるのかを考えてみよう。

 見真大師号と勅額が受け入れられない理由は、(1)真宗の教えからの問題点、(2)真宗儀礼・荘厳からの問題点、(3)歴史上からの問題点の3点を大掴みにあげることができる。

 まず、真宗の教えから上の問題点は、そもそも大師号は優れた業績の高僧へ追贈した諡号ということである。これは、見真が、『大無量寿経』の「五眼讃」の「慧眼見真 能度彼岸(慧眼は真を見てよく彼岸に度す)」を出典とし、真宗に相応しいと主張しても、これは大師号を明治政府へ教団側が内願した経緯があり、名前が相応しいのは自作であるゆえ当然であった。問題なのは、諡号は国家が故人へ贈る尊称であり、勅額は宸毫による書き出しで、奉懸されている額装(見真額)はその複製であるということである。つまり、死者の生前の業績を評価し、天皇から賜った尊号として額装して奉懸することが真宗の教えに照らして、果たして然るべき行為であったか、である。諡号が故人の生前の業績に従って作成され、位牌を見ればどのような社会的身分を持った死者であったが一目瞭然にして、死者の評価を現世の身分・階級により儒教式の「位牌」を彷彿とさせる。本来、真宗における仏法上の名告りは「法名(釈○×)」であり、社会的地位・身分・業績は関係なく、真宗門徒であることの表白である。従って、東西本願寺が教団的課題とする、法名門徒の社会的地位・身分に反映させてきた差別の歴史と決別し、本来の法名の名告りをと願う立場からすれば、地位・身分・業績の国家評価を受けた大師号は、真宗の教えに対立すると考えるのが通常である。

 第二点は、礼拝施設である御影堂の儀礼・荘厳の問題として勅額奉懸である。何といっても、勅額は宗祖親鸞への見真大師という諡号を、明治天皇の宸毫から金泥文字で複製し金襴彫刻で額装した。これを外陣とはいえ御影堂の正面に掲げ、この勅額へ参詣し仏事勤行に参加する真宗門徒は礼拝することになる点である。外見的には、真宗には不必要な「位牌」を仏壇に置いたり、また、仏間の上部にに真宗の荘厳と関係ない物を掲げ、そこを目掛けて礼拝するのだから、仏壇の上に神棚や十字架を置くに等しいという意見もある。そして重要なのは、もとより東西本願寺御影堂には、大師号宣下以前に勅額は存在せず、額を奉懸すること自体が、御影堂の荘厳や勤修される儀礼に反するという見方である。

 第三点が、大師号と勅額の日本仏教史における特異な性格である。大師号は真宗に限らず、日本仏教各宗の宗祖・開基・中興と呼ばれる僧侶に追贈された天皇からの諡号である。866(貞観8)年7月に清和天皇より日本天台の開祖最澄伝教大師延暦寺横川中堂開基圓仁へ慈覚大師の宣下が嚆矢である。現存の大師号宣下の原本は圓珍の智者大師が最古の伝来で、圓珍への大師号「宣旨」により、天台宗真言宗天皇諡号である大師を望んだ事情が垣間見れる。平安時代以降、日本で新しい仏教の宗派が形成した場合、宗派としての独立は、寺院としての本山は門跡寺院となることにより運営組織を組み上げ、本山の住持は僧侶界のトップである大僧正として宗門の僧侶を生産・管理し達成いた。ところが、教団成立期のそれぞれの本山は寺院社会での格も低く何れかの宗の傘下に間借し、宗祖と呼ばれる人物でも僧侶としての位もそう高くはなかった。大師号は、日本における寺院社会という身分・差別のなかで、当初は新興勢力であった各宗派が、天皇上皇より「大師号」を諡り名されることにより、皇室を仏教教団のオーナーとして推戴することが可能になり、日本社会への定着が完成していくわけである。

とすれば、真宗の宗祖親鸞は流罪後に無位無官となり、非僧非俗の宗教者という自己規定により宗教活動は支えられた。また、寺院組織とは無縁に過ごし、終の住処は天台僧である弟尋有の里房三条富小路善法房であった。こうした生涯を送った親鸞への大師号、親鸞へ大師号を宣下した明治天皇を、あたかも真宗という仏教教団のオーナーとして推戴した象徴である「勅額(見真額)」であるということになる。750回忌の御影堂修復の機会に完全な修復、不必要なものは片づけ、本願寺の創建当時の荘厳に戻すことが大切となる。また、このことは世界文化遺産という文化財価値の面からみても、皇室が日本仏教のオーナーであるという印象を拭う一助となるであろう。( 『同朋の広場』誌に掲載されたもので、菅原龍憲さんへお世話をかけた。)