「地域文化論」ことはじめ 1

「地域文化論」ことはじめ1

 久留米工業高等専門学校の四、五年生の一般科目で「地域文化論」という半期(4,5年生=大学1,2年に相当 選択科目)の講義を担当して七年ほど担当しました。その節の準備ノートや配付資料をまとめようと思っています。

 途中で非常勤講師に委嘱した年度もあったのですが、今年は自分でやってみようと決心して講義をはじめました。できは良くないのですが、自分にとっては楽しい準備と講義が続いています。あまり巧くない話に付き合わされる学生には迷惑なことでしょうが。
  今年は、日本人が「盂蘭盆会」にどのように引き込まれ、いつのまにか、社会全体が仕事を休んでまで「先祖供養」に、のめり込んでいくのかを、筑後地域を考察の場に選んで話していこうと考えています。
  この前提として、「血盆経」信仰や霊場(社寺)参詣を、戦国期から近世にかけて作成された寺社への参詣縁起絵(『社寺参詣曼荼羅』)を素材にして講義しています。配布した絵画資料のコピーに、マレーシアからの留学生の困惑した顔に、こちらも困惑しながら、絵を読み解きながら「地獄」やら「極楽」やらの話をしています。
  この講義の準備の過程で気が付いた、というよりは、すでに先学により指摘・分析されて、周知のことなのですが、真宗親鸞善光寺の深い関係には目を見張るものがありました。
  平松令三先生は、明快に親鸞善光寺聖だと指摘し、私もそのように考えてきました。(『仏教とジェンダー』ー真宗における坊守の成立と役割ー 2000年 明石書店
 考えてみれば、「血盆経」信仰を語るときにはずせない立山は、真宗王国といわれる冨山にあることを忘れてはならないわけで、加賀の白山も含めて、中世の「山の浄土」と切っても切れない関係にあることを忘れてはならないと反省しました。
これまでの、真宗史は、「盆」行事を代表とする先祖供養を、あたかも寄生虫の駆除の対象、あるいは水田に生える雑草のように考えてきました。ところが、近年の私の感想といえば、真宗という宗旨を支える基層には、「盆」に代表される「先祖供養」といった信仰に下支えされて、いわば「上澄み」のようなことをしただけではないかという見方する持つようになりました。
  「地域文化論」が、高専の存在する久留米・筑後地区に前期の講義期間(15週)で辿り着くか怪しい状況です。いま少し、前提となる部分をつめてみたいおもっています。できれば、一つでも成果が論文化できたらと思ってもいます。(未完)

 

「下剋上」 -日本中世戦国期学習の常識①

下剋上」 -日本中世戦国期学習の常識①-1

現在の日本史の教科書で使用される「歴史用語」を点検してみると、意外、というよりは面白い由緒を持つ語句が多数存在することに気が付きます。
 例えば、誰でも知っている「下剋上(げこくじょう)」は、隋の蕭吉の『五行大義』が上げられ、そのことを記述した教科書もあるくらいです。『五行大義』は、五行相剋を「火剋金,金剋木,木剋土,土剋水,水剋火」と説明し、人間社会が作り出す現象を「上下間」の相剋として論じています。その中で、人間上下の相剋が「上剋下”(上下に剋つ)」は順で道理に従っているが、「下剋上」(下上に剋つ)は、「剥」であり、易の卦の名の名前で凶相を意味するのでよくないといっているわけです。つまり、「下上に剋つ」は、易の凶相でもあり、道理に従ったものとはいえないというのです。
  ただし、『五行大義』の段階では、蕭吉はこの語を「熟語・成語」として用いたわけではありません。いかにも「下上に剋つ」というのでは、一般的に考えても可笑しく、その根拠の一つとして易でも「凶相」だとしているわけです。ここでの「下剋上」の意味は、五行の相剋の中で「下剋上」のみが、例外であるというわけです。つまり「下剋上」は、日本中世において歴史現象を説明した「語句」ではなかったわけです。
  さて、中世日本においては、よく知れられているように、「下剋上」は「下が上にくつがえり」、つまり、将軍・大名の家臣が、主君を謀殺・追放したりして治世を強奪したり、同一の親族結合の領主権力内でも子が親を追放・殺害することが日常化していたしていた社会で使われ、中世から戦国期の日本列島社会の世相を反映した、天下国家の無秩序ぶりを「下剋上」と表現した語句であると思われます。
  実際に、『太平記』巻27「雲景未来記事」は、「王道」は、平家の末に尽き,後醍醐天皇にいたって公家までもすたれ,末世濁乱の“下剋上”の世になったため政道もなく世上も静まりがたい」と結んでいます。同書巻36「畠山道誓事」には、関東公方足利基氏が武士たちの圧力に屈して道誓の執権をやめさせたことを、「下として上を退る嗷訴,下剋上の至かな」と怒ったとあります。『太平記』が描く南北朝内乱期、あるいは、『太平記』を生んだ室町期の人びとは、日本の政治・権力秩序の維持が「道理」から逸脱していて、「下剋上の世」になったものと意識していことを意味していると思われます。
  日本史の用語には、「下剋上」のように、中国古典を出拠としつつ、現実に引き起こる事象に当て嵌めを行った事例が数多くあります。「戦国大名」という歴史用語も、これに当たるでしょう。ただし、「戦国大名」という語句は、歴史学研究者が作り上げた用語だと思われますが、背景には「下剋上」の結果に生じた封建領主層の結集体であるという予測のもとに創られた造語であるということも忘れてはなりません。この点については、後考とします。(続く)

「一向一揆」という用語は、誰が始めて使用したか?

一向一揆」という用語は、誰が始めて使用したか?

 金龍静氏の『一向一揆論』(2004年 吉川弘文館 P24)によると、一向一揆という用語は新井白石が最初に使用したらしいとする。
  金龍氏は、『紳書』巻3を典拠にあげている。実際に『紳論』巻3に目を通してみると「一向家一揆」という語句はあったが「一向一揆」という語句は見当たらなかった。金龍氏があげた『紳書』のテキストは、『三河文献集成』(近世編下、P1162)となっていて、私が見たのは市島謙吉校訂・編集の『紳書』(P657)であるから、単にテキストの問題であるとも思われるが、どうも、「一向一揆」の名付親は新井白石だと言い切るには、少し無理があるように思われる。
  近代史学史で使用したのは、東京帝国大学文科大学教授の星野恒「徳川家康三河一向一揆の処分」で、1890年の論文あると思われる。金龍氏は『史学雑誌』1編3号とするが、『史学会雑誌』明治23年第九号である。
  『史学会雑誌』に拘る理由は、久米邦武の筆禍(神道は祭天の古俗)事件により、史学会雑誌が休刊となり、史学雑誌となり再刊される以前の論文であるということが大切であると考えるからである。つまり、久米事件に続き、南北朝正閨論により喜田貞吉(喜田事件)、津田左右吉事件と、近代史学史において、歴史学への「国家統制」、「皇国史観」の強要、といった「天皇制史学」とでもよぶべき歴史観への傾斜が顕著なる以前の論文であるということになる。しかも、星野恒が使用したということは重要で、「山城国一揆」などは、「一揆」という用語を使うことが憚られた時期が戦前に存在していたが指摘されたいる。(鈴木良一)こと「一向一揆」に限っていえば、近代史学史の中で継続的に使用された。
  確かに、君民一体を強調する「天皇制史学」の基調において、民衆の体制への抵抗・国家とは異なった秩序形成を描く「一向一揆」論が、ある意味において不思議な現象であるとも思われる。この問題は、もう少し深く議論してみたい。(未完)

「仏法領」論の黒田俊雄①

「仏法領」論の黒田俊雄①1

 必要があって、『黒田俊雄著作集 第4巻 専修念仏と神国思想』(1995年 法蔵館)に収録された「一向一揆の政治理念 ー「仏法領」についてー」(1959年「 初出)を読み直した。過去(1982年)に「いわゆる『仏法領』について」(『龍谷史壇』81・82合併号)で批判したことがあり、「仏法領の意味と解釈」に改題して『戦国期真宗の歴史像』(1992年 永田文昌堂)の1章として上梓した。ただし、「一向一揆の政治理念」は、1975年の『日本中世の国家と宗教』(岩波書店)に収録される際につけられた題名である。

  以降、黒田氏が説くような意味での仏法領の解釈に立って論議を展開する一向一揆真宗史研究者は少なくなった。黒田氏自身が、私の批判をどのように受け止めたかは、黒田氏逝去により明らかではないが、論文の抜刷をお送りした翌年に「寒中見舞」、翌年「民衆史における鎮魂」(『部落問題研究』№を失念)のコピーの恵与に与ったので、読んでくださったのだとは思われる。

その後、1983年7月下旬に黒田氏とは一度だけ、東大寺の法要見学の後、近鉄特急で隣席に座らせていただき、正直に朴訥な書き方による「仏法領」批判をお詫びしながら、率直な感想を求めたが、黒田氏は、中世仏教・顕密体制の展開の中で一向一揆蓮如真宗を評価すべきであると、あまり取り合ってはもらえなかった。むしろ、指導教授であった二葉憲香先生が京都女子学園園長に就任されるので、指導教授はどうなるのか、といった龍谷大学での私の修士論文の執筆のことを心配してくださったりした。ただし、はぐらかされたというよりは、山の裾野の踏査に拘ることへの否定的言であるとは感じたことだった。

 事実、黒田氏は1984年に「転換期の指導者」を執筆され、改めて「仏法領」を論じられた。(『南御堂』1984年4,5月号、後に『蓮如真宗大谷派難波別院 1986年)やはり、自論としての「仏法領」論の繰り返しであったが、大谷派門徒さんが対象の小論であるためか、以前に比較するとトーン・ダウンしたように読めた。私には、「仏法領」説批判への、否定的回答であるとも読めた。

  黒田氏の逝去後に刊行された著作集には、上記の2点の論考のほかに、「仏法領」に関する黒田氏の知見が収められたが、そのなかで私の興味を引いたのが、「真宗教団史序考」という、1948年に黒田氏が京都大学文学部に提出した卒業論文である。内容の検討は別機とするが、正直にいって、私の批判は、黒田氏は「真宗教団史への先祖帰り」のように読んだのではなかろうか、という感想を持った。著作集で公刊されて読むことが可能になったこの論文を、拙稿の執筆前に読んでいたら、かなり書き方が変化しているように思えた。(続く)

法然の「性差別文言」の評価について①

 1990年代、仏教史学会、研究会・日本の女性と仏教に参加した中世仏教史家たちから、次に法然無量寿経釈」の解釈についての論争がありました。まず、関連する史料から引用します。

 「A 次別約女人発願云。設我得仏。其有女人、聞我名字、歓喜信楽菩提心、於女身、寿終之後復為女像者、不取正覚矣。付此有疑、上念仏往生願不嫌男女来迎引接亘男女、繋念定願又然也。今別有此願、其心云何。倩案此事女人障重明不約女人者、即生疑心。其由者、女人過多障深、一切処被嫌。道宣引経云。十方世界有女人処即有地獄加之内有五障、外三従。五障者、一者不得。云云二者帝尺、三者魔王、四者転輪王、五者仏身。」

 「①天親菩薩往生論中、云女人及根欠、二乗種不生、同根欠敗種、遠絶往生之望。云云諸仏浄土不可思寄」

 「② 日本国サシモ貴無止霊地霊験砌皆悉被嫌。云云。先比叡山伝教大師建立、桓武天皇之御願也。大師自結界堺谷局峰不入女人形。一乗峰高立五障之雲無聳、一味之谷深三従之水無流。薬師医王霊像聞耳不視眼、大師結界霊地、遠見近不臨。高野山弘法大師結界峰、真言上乗繁昌之地。三密之月輪雖普照、不照女人非器之闇、五瓶之智水雖等流、不灑女身垢穢之質。於此等所尚有其障」

 「B 何況於出過三界道之浄土之哉。加之、又聖武天王御願、十六丈金銅舎那前、遥雖拝見之、尚不入扉内。天智天王之建立、五丈石像弥勒前、高仰雖礼拝之、尚壇上有障、乃至金峰雲上、醍醐霞中、女人不影。悲哉、雖備両足有不登法峰、有不沓仏庭、恥哉、雖両眼明有不見霊地、有不拝霊像。」

 「C此穢土瓦礫荊棘之山、泥木素像仏、有障、何況衆宝合成之浄土、万徳究竟之仏乎。」

 「D 因茲往生可有其疑故、鑑此理別有此願。」

 「③ 善導釈此願云。乃由弥陀大願力故、女人称仏名号、正命終時、即転女身得成男子。弥陀接手菩薩扶身、坐宝華上(宝花上)、随仏往生、入仏大会証悟無生。一切女人、若不因弥陀名願力者、千劫万劫恒河沙等劫、終不可得転女身。或有道俗云、女人不得生浄土者、此是妄説不可信也。云云是則抜女人苦、与女人楽慈悲御意誓願利生也。」
ここに示した文言の解釈・評価をめぐる議論があり、私などは、ただ茫然と議論を眺めていました。ただ、問題が「仏教の性差別」の根本にかかわる問題なので、自己の位置関係だけは示しておこうと思い、「研究ノート」を作成したのですが、なぜか気後れして発表の機会を逸してしまい、今日まで来てしまいました。以下では、その時に作成したノートを、現在でも議論しなければならないと思う範囲でブログという形で公開します。(続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   
「地域文化論」ことはじめ1

 久留米高専で「地域文化論」という半期(5年生=大学2年に相当 選択科目)の講義を担当して6年がたちました。途中で非常勤講師に委嘱した年度もあったのですが、今年は自分でやってみようと決心して講義をはじめました。できは良くないのですが、自分にとっては楽しい準備と講義が続いています。あまり巧くない話に付き合わされる学生には迷惑なことでしょうが。
  今年は、日本人が「盂蘭盆会」にどのように引き込まれ、いつのまにか、社会全体が仕事を休んでまで「先祖供養」に、のめり込んでいくのかを、筑後地域を考察の場に選んで話していこうと考えています。
  この前提として、「血盆経」信仰や霊場(社寺)参詣を、戦国期から近世にかけて作成された寺社への参詣縁起絵(『社寺参詣曼荼羅』)を素材にして講義しています。配布した絵画資料のコピーに、マレーシアからの留学生の困惑した顔に、こちらも困惑しながら、絵を読み解きながら「地獄」やら「極楽」やらの話をしています。
  この講義の準備の過程で気が付いた、というよりは、すでに先学により指摘・分析されて、周知のことなのですが、真宗親鸞善光寺の深い関係には目を見張るものがありました。
  平松令三先生は、明快に親鸞善光寺聖だと指摘し、私もそのように考えてきました。(『仏教とジェンダー』ー真宗における坊守の成立と役割ー 2000年 明石書店
 考えてみれば、「血盆経」信仰を語るときにはずせない立山は、真宗王国といわれる冨山にあることを忘れてはならないわけで、加賀の白山も含めて、中世の「山の浄土」と切っても切れない関係にあることを忘れてはならないと反省しました。
これまでの、真宗史は、「盆」行事を代表とする先祖供養を、あたかも寄生虫の駆除の対象、あるいは水田に生える雑草のように考えてきました。ところが、近年の私の感想といえば、真宗という宗旨を支える基層には、「盆」に代表される「先祖供養」といった信仰に下支えされて、いわば「上澄み」のようなことをしただけではないかという見方する持つようになりました。
  「地域文化論」が、高専の存在する久留米・筑後地区に前期の講義期間(15週)で辿り着くか怪しい状況です。いま少し、前提となる部分をつめてみたいおもっています。できれば、一つでも成果が論文化できたらと思ってもいます。(未完)

 

 

 

 

 

 

                        
一向一揆」という用語は、誰が始めて使用したか?5

 金龍静氏の『一向一揆論』(2004年 吉川弘文館 P24)によると、一向一揆という用語は新井白石が最初に使用したらしいとする。
  金龍氏は、『紳書』巻3を典拠にあげている。実際に『紳論』巻3に目を通してみると「一向家一揆」という語句はあったが「一向一揆」という語句は見当たらなかった。金龍氏があげた『紳書』のテキストは、『三河文献集成』(近世編下、P1162)となっていて、私が見たのは市島謙吉校訂・編集の『紳書』(P657)であるから、単にテキストの問題であるとも思われるが、どうも、「一向一揆」の名付親は新井白石だと言い切るには、少し無理があるように思われる。
  近代史学史で使用したのは、東京帝国大学文科大学教授の星野恒「徳川家康三河一向一揆の処分」で、1890年の論文あると思われる。金龍氏は『史学雑誌』1編3号とするが、『史学会雑誌』明治23年第九号である。
  『史学会雑誌』に拘る理由は、久米邦武の筆禍(神道は祭天の古俗)事件により、史学会雑誌が休刊となり、史学雑誌となり再刊される以前の論文であるということが大切であると考えるからである。つまり、久米事件に続き、南北朝正閨論により喜田貞吉(喜田事件)、津田左右吉事件と、近代史学史において、歴史学への「国家統制」、「皇国史観」の強要、といった「天皇制史学」とでもよぶべき歴史観への傾斜が顕著なる以前の論文であるということになる。しかも、星野恒が使用したということは重要で、「山城国一揆」などは、「一揆」という用語を使うことが憚られた時期が戦前に存在していたが指摘されたいる。(鈴木良一)こと「一向一揆」に限っていえば、近代史学史の中で継続的に使用された。
  確かに、君民一体を強調する「天皇制史学」の基調において、民衆の体制への抵抗・国家とは異なった秩序形成を描く「一向一揆」論が、ある意味において不思議な現象であるとも思われる。この問題は、もう少し深く議論してみたい。(未完)

開設への所感 遠藤 一のブログのはじまり

 本日開設、寺院住職、日本史・仏教史研究者(元 久留米工業高等専門学校 准教授)として、日頃に感じたことを記していきます。二〇一一年三月、娘の大学卒業と、息子の大学三年生進級をむかえ、二足の草鞋は、どちらともよくないということから、長徳寺住職へ専念することを決意しました。

 「辛いCM」の視聴。

 さっそくのボヤキです。夕方、雨上がりに横臥しながらニュースをみていました。ニューースの内容よりも、ある葬儀社のCMメッセージに愕然、「アリエヘン」こんな事(葬儀と坊さん)。「スソをはだけ、雪駄でバイク乗るんか?ミットモナイ」ではありません。

 バイクに衣装ケースを載せた僧侶が橋の上で、ヘルメットを被ったまま、葬儀の感想をポツリと。「エー、葬式やったな!」だって。そして「葬儀社」の名前がBGMとともに!!

とっさに、

 「葬式に、善いも悪いもあるか…」と、これは住職になりたての頃の粋がった義憤。では、いったい善い葬儀とは、悪い葬儀とは?聞きたくなる。

 

当節は、「誰が、バイク(原付)で葬儀に行くもんか。しかも、重い葬儀用の法衣は原チャリに乗せられるんか!!」つまり、葬儀の完成度・充実度・成功度を寺院・僧侶の側からいうことは、私の「感覚・感受性・感性」からいって、口が裂けても言ってならない御法度であるように考えている。僧侶は、人生の最後に立ち会うことができる「従軍牧師・僧侶」の存在である。あまりに葬儀を「日常の業務(ルーチン・ワーク)」と考えると、門徒さんに寄り添ってなどという「きれい事」はでてこないように考えた忍従・温和に対応し、相手が困っているっていることは不変であるから。困っていいることの事情は千差万別であるから。

 以前から放映されていたCM映像である。ふと考え込んでしまった。浄土真宗を名告る、つまり、親鸞聖人の遺弟であることを。どのように表現する、つまり、御同朋の実践にかかわる大切な意識化すべきことと思惟しました。

( 2017年10月23日 月曜日 補綴)