「女性と仏教」の方法と視角について  ―吉田一彦氏の書評への所感―(その2)

2「巣ごもり」した事情

 1997年に刊行を終了した『講座・蓮如』(平凡社)が、私が同学の人々と研究上の交渉を持った最後であった。また、この時期には世にいう学会はほとんど退会し、また、学会・研究会・セミナーといいたアカデミックな場には2000年頃より本格的に出入りした記憶はない。従って、同じ研究課題を持つ研究者でも10年下の世代は顔も知らないし、このことに不自由は感じていない。必要に応じて研究史と研究成果はフォローしているつもりであるが。いわば、福岡・久留米に「巣ごもり」し、自らの関心に従い学習してきたからであり、それにはそれなりの理由があった。
 1984年、「研究会・日本の女性と仏教」のことで、私は圧倒的に影響を受けた研究者から、女性と仏教が、教団絡みの問題、つまり実践絡みになていくことへ釘をさされ、いかに実践絡みの学問が研究水準の貧困をもたらすのかということを告げられた。従って、私は、龍谷大学という宗門校に所属しながら、宗門校では定版である教団史・宗派史・教学史を拒絶しながら「女性と仏教」の研究史に関わりだした。事後、25年が経とうとしている。1992年に真宗大谷派坊守から真宗史においての「坊守論」の確立という課題を提示され、以後、2000年には『仏教とジェンダー』を山陽教区坊守会の要請で刊行したが、出版までの過程で東西本願寺教団の「坊守」をめぐる議論は、大谷派では、1980年代後半では女性住職の認知問題、1990年代「坊守」の役職・地位の明確化、2000年頃には「坊守」の宗政への参政権の問題が焦点となり、それなりに問題の解決・決着を見てきた。本願寺派では、2000年以降に「坊守」を男性へ開放し同居する親族(寺族)に拡大する宗門法規の改正を行った。拙著の諸論文が坊守から研究成果の報告と提言を求められた背景である。
評者が坊守は「住職夫人であって、夫ととみ宗教活動行うような存在ではなかた」、あるいは「結婚する仏教にジェンダーイコールを求めているが、男女共同参画とはいえない」ということを明言するが、もともと、仏教の現実問題から出発した拙著に対して、「結婚する仏教・家族で維持する教団・寺院」という問題設定を行う際に、僧尼の結婚・家族連れがどのようなジェンダーを生みだすのかについて、現代仏教・真宗を生きる坊守からの問いかけに対する回答としては、どうしても承認することはできない。つまり、この20年間の本願寺教団で惹起した「坊守論」は、住職夫人となることを機縁としてともに寺院を経営し門徒の教化にあたるのが「坊守」であり、結婚・家族を持つ住職・坊守におけるジェンダーフリー男女共同参画とはいかにあるべきか、ということが成立し、それへの取り組みが真摯に行われたこと自体が、評者の僻見であることを示している。
私が「坊守論」を課題にするに当たり一番に躊躇し気を付けたいと考えたのは、自身が研究課題とした坊守からの依頼ではあっても、真宗教団の宗門の運営・政治に直接に関わる問題に発言するわけであるから、そのことを覚悟の上で、与えられた課題への希望的意識から「未完の理論と低い実証」という結果的に歴史学を手法とするだけの非歴史的論議に帰結してはならないということである。
そして、20年前に九州・福岡に移り住み、中央の研究動向を斜に見ながら、私にとって驚きであったのは、実践絡みの学問が研究水準の貧困と説いた先学たちが、本山・教団が主催する研修会の講師に招かれ、自説を歴史学が素人の教団人に学会の研究水準と成果を「分かりやすく」お話していることを目の当たりにしたことであった。つまり、これは東西本願寺のみではなく、凡そ本山・教団という組織が研修会を行うということは、何かの教団的課題を抱えてのことであり、そこで講義をし「講義録」としてまとめられることは、なんらかの教団事情による本山・教団の方針に学問的根拠と権威を付与する役割を負わされていることはいうまでもあるまい。従って、驚きの本質は、そのことへ招請されるの先学たちの無頓着・無警戒ぶりであり、本山・教団に都合のよいと思われる学者(講師)として招かれ、結果として本山・教団の方針に権威・根拠を付与していることへの無自覚・無恥振りである。
宗門に関与しない研究者であるのなら罪がないのではない、そのことが本山・教団という組織から便利に利用されてきた事実である。拙著のなかで、言わずもがななことを書いてしまったが、「先生(私)の意見は学会では少数派ですよね」という、あまりに当然といえば当然の念押しまでされ、あたかも日本仏教史・真宗史研究者のなかの「珍獣」扱いまでされた。吉田氏は、

さかんに議論された「女性と仏教」は、「おおもとのところでは問題設定を共有できなかった」し、「研究が全体に大きく前進したわけではない」。遠藤の問題設定には問題があり、「解答に至る道のりにいくつもの分岐路があるというである。遠藤氏が辿り着いた解答とは別の解答もありうる。(P35)

と、述べている。当然の御指摘であるが、この場合でも、拙著が動く真宗史のなかで、東西本願寺教団の坊守問題から与えられた研究課題という、極めて現実的な課題から論を立てつつ論証につとめたわけである。従って、評者の拙著への批判は、くどい位に本書成立の背景と風景を述べ、いわゆるアカデミズムの研究論文集との課題設定の温度差を計測したつもりであった。ゆえに、私は評者が真宗坊守がすすめる、ジェンダーフリー男女共同参画を「坊守」の役割を明確化し制度的に拡充し、宗政への公民権を獲得しつつ教団改革を実現しようとする運動への否定的言辞と受け取らざる得ない。また、何人かの真宗史における「女性と仏教」の立場からの発言も、真宗教団の本山側の立場からの、現在進行形で展開する坊守運動への否定的発言ではないかと懐疑的になる。従って、吉田氏に限らず、このような坊守をめぐる先学たちの否定的言辞と冷ややかな視線のなか、私の「巣ごもり」がはじまったし、今後も巣を出る勇気は持てないでいる。無論、わたくしの研究姿勢に問題があるが大前提であるが。

3 親鸞論・真宗史論の信頼性と安定性

 拙著の「坊守」理解を支える基本史料は、「親鸞夢記云」(「女犯偈」)を中心とする親鸞史料、「親鸞聖人御因縁」(坊守縁起)、「名帳・絵系図」を中心とした荒木門徒仏光寺関係史料、恵信尼史料・覚信尼史料である。これらの史料は、真宗史の碩学である宮崎圓遵・平松令三氏らの業績により紹介されたり、あるいは読み解かれた史料群である。そして、吉田氏は、拙著の宮崎「親鸞真宗史論」、平松「親鸞真宗史論」に対する位置関係を厳しく批判する。

 本書はこうした方面(史料批判―遠藤)宮崎圓遵氏、平松令三氏といった大家の見解を前提とし、それを継承するばかりで評者にははなはだ物足りなく感じられる。

 なるほど、その通りであり拙著の随所で基本史料への基礎的分析は宮崎・平松氏の「親鸞論・真宗史論」を前提に論をすすめている。この点についても評者と私の真宗史像に対する決定的温度差を感じる。大家たちの弟子筋であるという、自身の真宗史研究の立ち上がりの信頼性と安定性という観点から、拙い私見への根底を確認しておく。

 A 龍谷大学親鸞論・真宗史」の信頼性と安定性

 宮崎圓遵は、1927年龍谷大学大学(文学部史学科国史学専攻)を卒業し、爾来、1983年に死去するまで、半世紀以上にわたり本願寺史・真宗史・日本仏教史の研究にその生涯を捧げたした。私も宮崎の最晩年に講義を聞いた龍谷大学の卒業生の一人であり、確かに「大家の見解」を「継承するばかり」か、ろくに確かめもせず教師に教えられたことを鵜呑みにして結論のみを拡声し自説と称したのかもしれない。
また、京都大学出身で還暦を過ぎてから龍谷大学に籍を置かれた平松令三は、大学院(博士後期課程)で演習に加えていただいたし、久留米高専に着任後もご指導をいただいた恩師のお一人である。門人の一人であるように考え、現在でも、この「史料」は平松先生ならどのううに解釈するのか、と思いを巡らす恩師のお一人である。余計なことをいえば、私は龍谷大学で、宮崎圓遵の最後の講筵に侍り、福間光超卒業論文、二葉憲香に修士論文、博士課程では千葉乗隆・平松令三の指導を受けた。真宗史研究者にとって、こんな幸福な学徒はいるであろうか。恩師の衣鉢を継ぐことを誇りに思い研究してきたわけであり、それを「つまらない」といわれれば、「吉田さんには、衣鉢を継ぐべき恩師はいない」と気の毒に思っただけである。それだけに、現在の私の初期真宗研究の質が問われることには異論はない。
 つまり、評者が主張するように「大家の見解を前提とし、それを継承」することの問題があるとすれば、私が学習した真宗史・本願寺史に関わる宮崎の仕事が、学問的に余程に問題ありということになるが、本当にそうだろうか。そして、吉田氏が考える、あるべき中世・戦国期の真宗史研究の手法や解明すべき歴史像としての真宗とは何であるのか、少しく考えてみた。
 蓮如の五〇〇回会の頃から吉田氏は、本願寺順如・蓮如の「方便法身尊像」に注目し、従来の真宗史における蓮如・順如の評価を再検討し、新たな事実を報告されている。そして、重要なことはそのデータを持って日本仏教史上における「蓮如像」の転換を呼びかけている。たしかに、こうした吉田氏の挑戦からすれば、私の真宗史はご批判の通りであるように思う。ちなみに、私には吉田氏の真宗史研究は「従来の成果」の訂正を持って、自身見解を展開する「一点突破主義」の安価で杜撰な研究手法と苦笑している。
 いいわけではないが、吉田氏に指摘されるまでもなく真宗史の歴史像の再検討については挑戦してきたつもりであり、それなりの実績もあげた。
 確かに、初期真宗の事案に関わる「坊守論」についての、取り組んだ際の私の研究蓄積が不足し、信頼し恩師と仰ぐ平松、龍谷大学真宗学門の学祖ともいえる宮崎の研究を「丸呑み」したといえばその通りである。「丸呑み」しなければ、私の「坊守」論は試論にもならないように思える。ただし、その後において、「承元の法難」をはじめと親鸞研究を再検討する作業に取り組み、自身の議論の再実証、つまりは、真宗史像の再構築に取り組んでいる最中である。
※ 作業仮説の研究史的検討として、二葉憲香の「親鸞論」を点検したことがある。これは、吉田氏の指摘をまつまでもなく、自らが立つ真宗史の歴史像の基礎を点検するためであった。信頼性と安定性を担保した後に親鸞研究を足がかりにして真宗史像を再検討づる決意であった。(「戦後親鸞論の軌跡(1~3)―二葉憲香「仏教史学・親鸞論を読むー」(久留米工業高等専門学校紀要第二四巻一号から二五巻一号 2008年から2009年)

B 本願寺史の起点としての恵信尼覚信尼歴史的評価

 「坊守」論を提起するにあたり、私は3点にわたり不安の決定的な研究史に対する不信感を持っていた。そのことについて、吉田氏は見事に見抜き厳しく指摘している。正直に言えば、次の三つの論点については、少なくともご指摘・批判を放置することはできないと考え、少しく議論しておきたい。

 ⑴ 真宗史における「坊守」使用の普遍化

 「坊守」は、普通に考えれば、親鸞門弟の中では、東国の荒木門徒とその後裔に類する仏光寺教団で中世戦国期に限定的な集団内で使用された「語句」であると考えなければならないと思慮している。また、その後の調査等によっても、少なくとも戦国期仏光寺教団では「道場坊主・寺院住持」の妻であり、門徒集団では道場坊主と対の女性宗教者であることを示唆する使用例が確認できた。(平田明照寺「門徒名帳」)確かに中世戦国期真宗の世界で「坊守」は、東国荒木門徒仏光寺門徒で限定的使用されたと思慮するのが一般的解釈であるといえる。ただし、私はあえて「坊守」を女性専門的宗教者(坊主と坊守)の固有名詞と判断し、あえて、「坊守」という語句の検出が無い本願寺教団へ「当て嵌め」て普遍化させた。
 その問題意識・意図は、実態としての<僧の妻の宗教的役割>は確認できると考えた方であり、「坊守」と呼び慣わすか「××寺**向」と呼ぶか、「○○坊主衆内方」は、当該の女性が所属した教団の慣行であり、近世社会で「僧の妻」・「僧の妻帯」が問題になった際に、つまり、儒者・非真宗系仏教からの「肉食妻帯批判」に直面したり、真宗寺院の「僧の妻」を、各地公権力(幕藩)に対して「寺院所属構成員」を届け出る場合に「同宿・女房・女」では、切り抜けることができないと判断からと推定した。無論、近世真宗への分析が不足している中で、いくつかの事例をもって行った「蛮勇奮って」の推測であった。つまり、「坊守」という女性の専門的宗教者であるから、寺院にそんざいすることが当然であるという理解・主張であると考えたわけである。つまり、近世教団が幕藩体制・公権力に対する「肉食妻帯」の肯定論として真宗教団各派に定着したという推論である。

⑵ 本願寺史起点が覚信尼教団とする実証作業

 吉田氏は、私が初期本願寺史=関東諸門流と覚信尼・覚恵・覚如への史料批判を踏まえた分析が必要であることを強調する。ことに、覚信尼が再婚し小野宮禅念との間に生じた唯善との間に生じた大谷廟堂留守職(初期本願寺文書)の係争に関わる史料群への史料批判が重要であると述べる。初期本願寺文書の史料批判を通じての、いわゆる「唯善」事件の検証・復元研究が必要であると力説する。
 そして、大谷廟堂にかかわる「初期本願寺文書」は、「正文」は伝わらず、おおよそ「案文」を中心に何らかの意図で「大谷廟堂」の由緒文書として編纂し護持されることになった。いわば、本願寺という寺院の歴史的性格を表す「由緒文書」であり、本願寺という寺院が「大谷廟堂」を起源とすることを主張する根拠であった。また、本願寺教団の宗主が、教団を率いる首領であることの根拠も「大谷廟堂」の「留守職」に関する文書群も信憑性を疑ってもよいというから読み込むべきと前置きする。
 初期本願寺由緒文書である「大谷廟堂」への史料批判、というよりは、「一点一点の真偽を厳格に検証し、もし偽であるのならば、いつ誰によって何の目的で作成された」のかと明らかにしてから論ぜよと大鉈振るいで、吉田氏は私の所見への疑問をぶつける ついには、「<留守職>なる職は他にあまり見かけなず、この(唯善との係争)争いの中で創作された職である」と断じている。あまりに性急で、独断的な見込みの論議であると苦笑したが、吉田氏は遠慮も容赦なく「(大家の議論)継承するばかりで評者にははなはだ物足りなく感じる」と、畳み掛けられた。まさに、勘弁していていただきたい決めつけの論理であり、そう簡単に、真宗史の信頼性・安定性が覆るものもない、真宗史の素人の世迷言と黙殺することにした。
 私にしてみれば、宮崎・平松だけではなく、戦中から戦後に活躍した碩学である赤松俊秀、笠原一男、井上鋭夫といったの初期真宗史研究は、学生の自分から真宗史の基礎学習として読み漁った。それだけではなく、これらの碩学が残した学問的遺産は、その意図は訪ねようも無いが基本史料を後学の至便なるように整理・公刊したことが、なによりも評価されるべきである。
 1984年度の日本史研究会大会で「寺院と民衆」という共同研究報告があり、新行紀一・細川涼一・吉井敏幸氏らが報告者であった。(『日本史研究№266』)私は、この共同研究報告に先立つ準備会の「3月例会」で、「新行紀一氏の一向一揆論」という報告を行った。ねらいは、当時の一向一揆論の研究水準にあると考えられていた新行氏の研究を、「権門体制論」・「顕密体制論」・「異端派宗教の戦国期での展開」といった視点から検討し、「寺院史」のなかでの「一向一揆論」という課題に取り組む前提に取り組むためでもあった。「寺院と民衆」という共同研究の課題設定に対して私は、およそ、その意思に反するというよりは、結果的に無視した報告を行った。その主旨は四点である。
 第一に「門跡・院家制」(「門跡也」)をもって戦国期本願寺教団の成熟とすれば、簡単に「異端派宗教」として位置づける根拠はいずこにあるのか。そもそも、一向一揆は、黒田氏のいう「異端派宗教・異端改革運動」の系譜に位置づけてよいものか、という疑問である。
 第二には、本願寺一向一揆・教団組織を収斂しつつ一揆暴力装置化し戦国期大名権力との合戦を繰り返した。見方を変えれば領主間戦争であり「戦国期宗教権力」という見方がじゅうようになるのではないか。(「本願寺法王国」)そして、重要な点は、「本が寺・一向一揆」が、戦国期列島日本社会の領主間配置に「戦国期大名」
 第三に、「大阪並体制」・「寺内町」を「農」(民衆)の結集で「仏法領」の実現した形態であるという位置づけ。そして、一向一揆と激しく対決した「織田権力」は、兵(武士)の結集であり、石山合戦を通して兵農分離社会が成立し、一向一揆は日本封建制社会に「別途」の封建制を成立させる可能性を持った。まず「寺内町」は、そのそも民衆の解放空間ではなく、寺院という領主の支配する空間いすぎないのではないか。また、蓮如の「仏法領」説は、黒田氏が主張する「一向一揆の政治理念」として読み込むことができるのかという疑義である。
 第四には、新行氏に限らず「一向一揆」論の多くがいわゆる宗派史研究の史料を基礎としているということである。黒田「顕密仏教論」が力説する鎌倉新仏教と呼ばれる現代における日本仏教の中核宗派(仏教教団)の形成を中心にみる歴史観からの脱却という課題からすれば、むしろ宗派史研究に依存する日本史研究分野であるといえる。そして、宗派に属する研究機関による史料調査・分析の蓄積に支えられている研究現状をどのようにかんがえるか、である。
 私の例会報告について、当時の日本史研究会の中世史部会・研究委員がどのように聴いたかは不明であるが、黒田氏自身が大会報告の「討論」の席上で、例え話まじりに「富士の裾野が見えるだけで、一向に頂や頂上が見えない」と批判めいた発言を最後にしたことが強烈であった。準備段階で、鎌倉新仏教論・宗派史研究を批判しておきながら「一向一揆論」の成果のみを、「権門体制論」・「顕密体制論」・「異端派宗教の戦国期での展開」に組み込もうというセンスの悪さを、私は少し離れたスタンスで聴いた。そして、内心「中世寺院史研究」の大きな欠陥に気付き、3月例会の「新行一向一揆論」批判の正当性を改めて認識した。
 ここで、改めて吉田氏が私に対して指摘して下った点で、次の2点に「言い訳」について本節で根拠を述べたつもりである。① 宗派史研究の、特に主流となる宮崎・平松らの議論に無批判であったことはには相違はないが、現時点でも、大きな疑問点をもってろんずるほどの瑕疵はないように思える。つまり、安定的であり、私の議論もその延長線上にあることは当然であった。② そして、なによりも主張しなければならないのは、真宗史研究者はほぼ共通のデータベースを使用しているわけであるから、そこを超越した研究を求められた場合、相当の時間と人力を必要とする。私も、この点については、自覚している点であり、限定的ではあるが見直し作業をすすめているつもりである。