真宗葬送儀礼の淵源と成立 -真宗以前と覚如期の葬送儀礼ー

2015年2月2日の福岡組法式研修会での配布レジュメ(その1)

 

1 共通の課題意識 ―本年までに確認した事項―

 

A インドにおける「素形」の成立(2013年2月)

 

 イ 紀元頃→ 「無常経」=葬儀に際して読経経典の撰述

7C末唐→ 義浄による訳出 則天武后の支援=後期唐社会の国家的事業化

 

 ロ 『南海寄帰内法傳』(義浄) 694年 スマトラ(シューリーヴィジャヤ=パレンバンより唐代仏教儀礼=儀軌を批判) ← 葬送儀礼も儒道習合の実態批判か?

  一七日・七七(四九日)の「喪中陰仏事」の紹介

  読経・塗香(燃香)・供物(供花)などの記述と紹介

 

 ハ 出家した僧尼への死者儀礼として「無常経」の読経・中陰仏事が形成

 

  注記1 看病・看死といった施設・修法との関係は不明

  注記2 部派(上座部)の多様な存在形態も含め、義浄の記述からは不明

(インド南部 ナーランダー寺院へ20年以上滞在し留学)

 

B 中国=家仏教徒の「葬送儀礼」への応用

 

イ 『無常経』の訳出と中陰仏事の意図

 

儒教式の葬送儀礼、あるいは服喪規定(期日・期間)が一般化した唐社会での、「無常経」を依用した「葬儀・中陰」が本来の「儀範」であるという提案と運動

 

  • 注記 ただし、「無常経」による葬送儀礼は出家者(僧尼)に限定という課題

 

 

 ロ 仏教徒=在家者の「葬送儀礼」開発が「晩唐・宋代仏教」の課題

 

 在家葬法成立の背景=「居士仏教」の隆盛による在家仏教徒の増加への対応

 出家者として死去した在家仏教徒を扱い、出家者として「遺体」を扱う

 「没後作僧」(引導・作僧・授戒儀礼を葬儀の前か中途に行う)の形成

 「没後作僧」、各宗の儀軌に応用して「引導・没後出家・没後作僧・没後授戒・・・」といった様々な呼称となるが、出発=起源は宋代仏教(禅・念を中心として中国天台の「居士仏教」)

  • 出家者(僧尼)は「尊宿葬法」→ もとより出家・仏弟子ということになるから、「尊宿葬法」(尊い仏性が宿った出家者・仏弟子の葬送儀礼という意味)

 

 

 ハ 「無常経」を依用した葬儀・中陰仏事は、その成立の背景として葬送儀礼が死者儀礼=死去した人間とどの様に向合うかという立場から形成したものと判断してよい

 

2 真宗以前 -真宗葬送儀礼との関わりから-

 

ダブル(僧俗)・スタンダードで、かつ集団(禅・浄土・密教)それぞれで度差がある葬送儀礼が展開

 

Ⓐ 尊宿葬法・亡僧葬法(在家葬法の導入、僧尼の葬法の確立も促す)

 

 義浄の「無常経」による葬送儀礼の紹介以降、インドから伝来した葬送儀礼は、僧尼を対象とするものであり、在家仏教徒の葬送儀礼は伝来しなかった、あるいは、存在しないと意識されていた。従って、義浄が行った仏式による葬送儀礼の普及運動は、出家者(僧尼)・寺院内に限定される限界を有していた。

 

Ⓑ さらに宋代(11世紀前後)になると、在家仏教徒(信者)に対する仏式の葬送儀礼を、出家者と同様の「無常経」を中心として執行する機運がたかまる。

 

 ㋑ 中国の民間葬送儀礼である「臨終方訣」の採用

 「臨終方訣」を臨終儀礼に導入し、僧尼の臨終儀礼と別ける。

 

 ㋺ 出家者の葬送儀礼との接合→ 没後作僧・尊宿葬法

 

 ㋺ 中唐(6から8世紀)から晩唐

 

 あ 天台(国家仏教)として唐国家の護持→ 「尊宿葬法と没後作僧」

 

 い 後期大乗として伝来した密教 「光明真言土砂加持」による追善

 → 土砂を加持し、病人・死者に対して加持・祈祷を行う

→埋葬地あるいは遺体(遺骨)に対し、光明真言誦加持した土砂で祈祷し、死者(亡者)の死後の得脱を加持する修法

→ 平安中期真言・南都仏教を中心に展開・隆盛

 

<確認 その2>

 出家儀礼として在家仏教徒の葬送儀礼を考案、死後の「出家儀礼(法名・剃髪=剃頭・沐浴・直綴・袈裟等を執行)⇒ 死後出家である「没後作僧」(引導儀礼)の成立

 

Ⓒ 「臨終方訣」の仏説化と「没後作僧」の成立

 -出家葬法を応用して、宋代までに在家葬法の成立―

 

晩唐・宋代の葬送儀礼の日本への影響→ 「無常経」による「葬儀」と中陰(七七日) 

1  遣唐使の留学僧(年分度者である国家的扶持を受ける官僧 南都仏教)から、天台・真言に至るまで、

 

※2 所与の条件として「死者(亡者)儀礼」のための「尊宿葬法・没後作僧」という葬送儀礼が形成された

 

<参考 同時期の「死の作法」との関連>

 

※1 善導に代表される「往生浄土」を「死の作法」「臨終儀礼」(死=往生の迎え方の作法・所作)

 

 ※2 埋葬(死後)・追善供養として展開した葬送儀礼(光明真言土砂加持)

 

※3 義浄の「訳経」→鳩摩羅什玄奘ほどの訳経僧としての支持を受けなかった

 → 則天武后(即武天)に内道場での囲い込(「神異」を祈願する国家祈祷経典)

 → 「儀軌」が中心(渡印の目的)であり、儀礼・組織の規則・軌範を学ぶ姿勢が大きい

 

4 蓮如以前の真宗葬送儀礼

覚如・存覚期の葬送儀礼の属性

 

 浄土真宗の葬送儀礼の原型は、蓮如期に形成し、「作僧(作相)」と正信偈の読誦・読誦中の焼香を基本としていた。(「臨終・葬送・納骨」『戦国期真宗の歴史像』1992年 永田文昌堂)さらに、その素形を遡れば、覚如(『慕帰絵詞』)の「死の作法」にみてとれる。

 覚如蓮如期の真宗の葬送儀礼を検討して興味深いことは、真宗は天台浄土教の葬送儀礼を雛型とするのではなく、禅の「没後作僧」を雛型に簡略化して形成したものと推定できることである。

 

㋑ 覚如『改邪抄』と「没後作僧」批判

 覚如は、法然門下(逆修・五重相伝)の臨終儀礼の執行による「浄土往生」を保障する動向を批判。

 

史料A 1 覚如の「青道心=入道」批判

一 優婆塞・優婆夷の形体たりながら出家のごとく、しひて法名をもちゐるいはれなき事。

本願の文に、すでに「十方衆生」のことばあり。宗家(善導)の御釈(玄義分)に、また「道俗時衆」と等あり。釈尊四部の遺弟に、道の二種は比丘・比丘尼、俗の二種は優婆塞・優婆夷なれば、俗の二種も仏弟子のがはに入れる条、勿論なり。なかんづくに、不思議の仏智をたもつ道俗の四種、通途の凡体においては、しばらくさしおく。仏願力の不思議をもつて無善造悪の凡夫を摂取不捨したまふときは、道の二種はいみじく、俗の二種が往生の位不足なるべきにあらず。その進道の階次をいふとき、ただおなじ座席なり。しかるうへは、かならずしも俗の二種をしりぞけて道の二種をすすましむべきにあらざるところに、女形・俗形たりながら法名をもちゐる条、本形としては往生浄土の器ものにきらはれたるに似たり。ただ男女・善悪の凡夫をはたらかさぬ本形にて、本願の不思議をもつて生るべからざるものを生れさせたればこそ、超世の願ともなづけ、横超の直道ともきこえはんべれ。この一段、ことに曾祖師[源空]ならびに祖師[親鸞]以来、伝授相承の眼目たり。あへて聊爾に処すべからざるものなり。

 

史料A 2 覚如の「没後作僧」批判

 一当流の門人と号する輩、祖師、先徳、報恩謝徳の集会のみぎりにありて、往生浄土の信心においてはその沙汰におよばず、没後葬礼をもつて本とすべきやうに衆議評定する、いはれなき事。

右、聖道門について密教所談の「父母所生身速証大覚位」(菩提心論)と等いへるほかは、浄刹に往詣するも苦域に堕在するも、心の一法なり。まつたく五蘊所成の肉身をもつて凡夫速疾に浄刹の台にのぼるとは談ぜず。他宗の性相に異する自宗の廃立、これをもつて規とす。しかるに往生の信心の沙汰をば手がけもせずして、没後葬礼の助成扶持の一段を当流の肝要とするやうに談合するによりて、祖師の御己証もあらはれず、道俗・男女、往生浄土のみちをもしらず、ただ世間浅近の無常講とかやのやうに諸人おもひなすこと、こころうきことなり。かつは本師聖人の仰せにいはく、「それがし閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし」と云云。これすなはちこの肉身を軽んじて仏法の信心を本とすべきよしをあらはしましますゆゑなり。これをもつておもふに、いよいよ喪葬を一大事とすべきにあらず、もつとも停止すべし。

 

㋺ 『慕帰絵詞』にみる葬送儀礼

史料A 4『慕帰絵詞』(従覚〈慈俊〉 覚如次子)

観応二載 辛卯 正月十七日の晩より、聯か不例とて心神を労わくし侍れば、ただ白地〈あからさま〉におもいなずらえ、天下の騒ぎもいまだおちいぬほどなれば、医療を訪るべき時分もなきに、十八日の朝よりなおおもりたる景気なるに、世事はいまより口にものいわざれども、念仏ばかりはたえずいきのしたにぞきこゆる。さりながら身をはなれぬ僧のむかえるに、この二首をかたりける、

 南無阿弥陀仏力ならぬ 法ぞなき たもつ心も われとおこらず

 八十地あまり おくりむかえて 此春の 花にさきだつ 身ぞ哀れなる

おもいつけたる数奇にて、最後までもよわよわしき心地に、一両首をつづけるよと、安心のむねも、今更とうとくおぼゆる中に、花のなさけを猶わすれずや、誠に哀れにぞ覚える。

 凡そこのたびは今生のはてなるべし。あえて療医の沙汰あるべからずと示せども、さてしもあるべきならねば、あくる十九日の払暁に医師を召請するに脈送(脈道)も存の外にや、指下にもあたりけん。なむるところの良薬も験なく侍れば、面々ただあきれはてて瞻仰ぐより外の事ぞなき。

ついに酉の刻の末程に、頭を北にし面を西にし、眠るがごとくして滅を唱えるぞ心うき。つらつら頓卒の儀をおもうに、縡の楚忽なる有待のさかいとはいいながら、今更不定のならいにまよい侍れば、常随給仕の僧侶、別離悲歎の男女、喩をとるにものあらんや。釈迦如来涅槃の庭には、禽獣虫類までも啼哭したてまつりけり。大和尚位円寂の砌には、上下士女までも、傷嗟することかぎりなし。さても不思議を現せしは、発病の日より終焉の時に至るまで、始中終三箇日が程、蒼天を望むに紫雲を拝するよし、所々より告げしめす。そもそも三日彩雲の旧蹤をたずぬるに、いにしえ高祖聖人の芳躅にかない、今は先師霊魂の奇特をあらわす、これなり。

 事切れぬれども、つきせぬ名残といい、かわらぬ姿をもみんとて、両三日は殯送の儀をもいそがねども、かくてもあるべきかとて、第五箇日の暁、知恩院の沙汰として、彼寺の長老僧衆をたなびき迎いとりて、延仁寺にしてむなしき烟となしけるは、あわれなりし事のなかにも、二十四日は遺骸を拾えりしに、葬する所の白骨一一に玉と成りて、仏舎利のごとく五色に分衛す。これをみる人は、親疎ともに渇迎して信伏し、これを聞く人は、都鄙みな乞い取りて安置す。まのあたり此の神変にあえるは、嘆の中の悦びともいいつべく、迷の前の益ともいいつべし。

 

  • 『慕帰絵詞』にみる覚如の臨終・葬送

 

 

 Ⓐ 臨終仏(阿弥陀絵像・三具足) ◎ ただし、山田雅教は「善導像」と指摘?

 Ⓑ 頭北面西(直綴・五條袈裟)

 Ⓒ 鳥辺野での荼毘(「輿」の葬列と火葬の図)

 

㋩ 存覚「最須敬重絵詞」による補綴

史料A ④ 『最須敬重絵詞』(存覚) 巻7第27

 命終ちかきにありとて、口に余言をまじえず、ただ仏号を称念し、こころ他念にわたらず、ひとえに仏恩を念報し給う。かくてその夜あけにければ、看病の人々相談し、医師を招きて病相をみたてまつらしめ、随分の療養をもくわえたてまつらんと申し合わせられけるを、病者聞き給いてゆめゆめその儀あるべからず、命は定業かぎりあれば、薬をもって延ぶべからず。たといその術ありとも、わがもとむる所にあらず。岸上のちかづくことをまつ、病は苦痛の身をせむるなければ、何の療治をかとぶらわん。たとい又そのくるしみありとも、いく程かあらん。刹那にすつべき穢土の業報なりとて、かたく制したまいければ、ちからなく、その沙汰をもやめられけり。称名のたえまに、傍なる人にしめして、二首の歌をぞ、かかせられける。

  南無阿弥陀 仏力ならぬのりぞなき たもつこころも われとおこらず

  八十あまり おくりむかてえて この春の 華にさきだつ 身ぞあわれなる

 一首は、朝夕に思い付き給いし和語の風情によせて、日来決得し給える他力の安心をあらわされたり。三十一字の藻詞たりといえども、おそらくは四十八願の簡要とも、いいつべきものをや。一首は春の節をむかえても、なお華の比まであるまじき、あだなる身のほどをおもいしりたまえることのは、いとあわれにや、又やさしくもきこゆ。

 さてこよいもあけぬれば十九日なり。さるにても病の軽重も、いのちの延促も、人々おぼつかなく、おもいたてまつられければ、病体にはかくとも申さで、ひそかに医師を招請して、みたてまつらしめられけるが、たのみなき御有様なり。よもひさしき御事はあらじと申し出でにけり。されども、くすしは何とか申しつるとも、たずねらるる事なし。いきの下に、ことばをいたしたまう事とては念仏ばかりなり。其の日も程なくくれ、酉の剋におよびて、斜陽すでにやまのはにかかり、晩風かすかに庭の梢におとずるる程、とおくは大覚世尊入涅槃の儀式をまもり、ちかくは両祖聖人入滅の作法に順じて、頭北面西右脇にふし、意念口称かわるがわるあいたすけて、相続称名の息ひとたびとどまり、本尊膽仰のまなこ、ながく閉じたまいにけり。 寿算をたもち給うことは、すでに八十二、ついにあるべき別れとは知りながら、病牀にふし給うことは、わずかに三箇日、時に臨みては、取り敢えぬ悲しみなり。智灯ながく消えぬ。誰に向かいてか、遺弟愚痴の昏迷をてらさし、法水たちまちにかわきぬ。何をもちてか末世群萠の道芽をうるおさん。ただ忍土永離の涙をおさえて、ひとえに浄刹再会の縁を、期するばかりなり。

 

 規格外のの資料・図像

 

存覚の達

  • 常楽寺本「看病講式」(良忠)の存在⇒ 慈観(存覚息・木辺・錦織寺開基) 

 

「臨終正念」(念仏=称名は準備・修行)と、「平生業成」のあいだ