「女性と仏教」の方法と視角について ―吉田一彦氏の書評への所感―

序 ことの始まり

 かつて「研究会・女性と仏教」の京都事務局スタッフとして、会への参加の呼びかけを行なったとき、お声掛けをした先輩方から、「女性史の問題は仏教史・真宗史はなじめない。仏教史・真宗史の問題にならいないのでは?」という率直な感想をいただいた。すでに笠原一男・源淳子氏などの先駆的研究は存在したものの、総じて当時の仏教史・真宗史における「女性と仏教」の問題は未開拓な分野であったように思う。そのあたりの事情は、1986年の本誌に研究通信で論じたことがあるが、それから20年以上が経過し、いまや「女性と仏教」に関する研究蓄積は、由緒ある歴史学や宗教学・仏教学研究の学術誌での議論の俎上に載せられている。これは私にとってじつに感慨深いことであり、『中世日本の仏教とジェンダー -真宗教団・肉食夫帯の坊守史論―』(明石書店 2007年)も、そうした「女性と仏教」という新しい研究課題の息吹のなかでの上梓であった。
拙著は、これまで真宗史という宗派史・宗門史のなかで教団(組織者)・男性僧侶(教化者)から寄進者(被組織者)・信者(被教化者)という扱いのなかで論じられていた女性信者像・組織の変遷の問題を、教団・寺院組織のなかに内在化させられ真宗女性が持っていた属性・役割を掘り起こし、男性原理で伝来してきた真宗史料を読み換えの試論であった。これまでの教団史・教学史・宗派史・宗門史、仏教=真宗教団・教学において周縁の存在であった「女性」が、男性原理で編纂・伝来した史料群のなかで、どのように真宗への信心を社会・教団・門徒団・寺院・道場・家族と自己を切り結び、中世日本仏教にどのような属性・役割・特色をもたらしたのを問うたつもりであった。
本書は、序論を除いて2部に構成されている。第1部は、親鸞とその家族を軸として、初期真宗教団の形成を、親鸞の遺族が経営主体となった本願寺門流の結集原理に関する論議であった。特に、本願寺の結集軸となった「大谷一流」という中世的な親族集団形成の必然を親鸞の教学的主張・宗教活動から読み解く作業から開始した。第2部は、親鸞を宗祖とする宗教集団、本願寺も含めた初期真宗諸派の教団形成におけるジェンダーの役割、なかでも師主となった「坊守」の活躍を描き、次に本願寺教団における「坊守」の教団・寺院への内在化を戦国期真宗で分析している。
各部、各章は異なった集団・時期において生じた、女性と仏教にまつわると考えられる事象について論じているが、全体としてはそれらが相互に連関しつつ、現在に至る真宗教団・教学・信仰の容貌に影響を与えているところまで俯瞰した内容である。こうした構成となった理由は、女性と仏教という視覚から、真宗史の特に真宗教団形成を中世列島社会に生じた現象であることを意識しつつ、大きな意味での日本仏教史の流れに位置付けるために、僧尼が家族連れであることと、そのことが教団形成にどのような属性を与え、あるいは僧尼が家族連れで教団・寺院を経営し門徒団の師主となる個別事例について分析しながらも、坊守という職業的宗教者の成立・役割・変遷を真宗史という坊主(男性住職)を中心に描かれた枠を超えて、坊主と坊守という男女間のジェンダーによる相互機能を歴史的文脈のなかで動態として論じて行く必要があったからである。この課題に対する深刻な問題の一つは前近代における坊守関連史料の圧倒的な希薄さであるが、拙著ではそれを克服するために批判的前提として真宗史研究の優れた先行研究の成果も採り入れることにより補完・依存しようとした。
このように拙著は標準的とは言えない女性と仏教の歴史について叙述した歴史書であるにも関わらず、予想以上にある程度の研究者から暖かい励ましを受けたり、ご意見を頂いていることは光栄の至りである。そしてこのたび、伝統ある『仏教史学研究』(2008年、51巻1号)においても拙著の書評を掲載していただいた。まずは誌上で拙著を紹介するように取り計らってくださった仏教史学会事務局の皆様と評者の吉田一彦氏にお礼を申しあげたい。
しかし、この吉田氏による書評が、拙著の主旨や意義を読者に伝えるという態度で著されなかったこと残念でならない。評者は拙著における概念規定・史料解釈・議論の前提など多項目について否定的議論を述べているが、その根拠となる論議が明示されず判然としなかったり、あるいはその説明が恣意的と思慮され妥当性を欠いている。また、評者は否定的議論に対する説得的な対案は示していない。拙著は新たな分野の開拓を試みたものであるから、私としても批判は大いに意義深いものと考えている。とはいえ、議論の根拠となる研究上の根拠が明確に示されないままの批判は、批判といえないだろう。史料批判や考察不足を指摘する場合でも、評者の批判的論議を加味し拙著の論旨が完成せず、あるいは論旨を修正・撤回しなければならない理論的・実証的・史料的根拠が判然としていないように思える。また、拙著が重要視しているはずの論旨もきちんと紹介されているとは言い難いものがある。
かてて、評者がいかなる(私とは異質の)真宗史像を持っているかについても明示されておらず、評者がどのような学問的立場(歴史観)から拙著を批判しようとしているのか不明である。私はこの書評と真剣に向かい合おうと努力したが、拙著の論旨を変更するほどの内容は含まれていないことを確認した。この確認作業の外に、この書評が全体として何を論議しようとしたのか、またその意図や目的が何であったのかまったく理解できなかった。だが、それでもなんとか吉田氏の言わんとするところについて理解すべく、私は拙著に対する「批判」のうち、論議すべき「批判?」として、以下において所感として述べさせていただく。従って、これは反論ではなく、吉田氏が提起してくださった批判を縁とする研究ノートの公表である。

 

(1) 真宗史は動いている

 

 「本願寺においては、過去も現在もいや覚如の時代からずっと、妻は住職夫人であって、夫とともに宗教活動を行うような存在ではなかった。」(P 35)「従って、結婚する仏教にジェンダーイコールを求めているが、男女共同参画とはいえない面がある。」(P39)

 拙著では、第一部第1章で全容を鳥瞰する作業を行ったうえで、ある種の謎解きを第一部の各論に負わせた構成になっている。このような構成になった理由は、拙著の多くの論考が真宗大谷派本願寺派坊守・寺族婦人を対象とした研修会での問題提起・講義をもとに、その記録・講義録として参加者へ、私に課題として依頼を受け与えられ講義の事後報告・成果の中間報告としてまとめたものである。そのために私は、学術的なテーマ設定を取ることを基本姿勢として、現実的な問題から浮上する主論の背景にある「坊守」をめぐる諸問題に関する問題関心を意識しながら、あくまで講義・問題提起の依頼主で読み手である真宗に関わる人々への回答としての役割を重視した記述となった。従って、拙著のいくつかの論考の主題が、執筆期間であった1992年から2004年にかけての東西本願寺教団においてての坊守を中心とした「女性と仏教」をめぐる諸課題を受けての、真宗史・仏教史研究者としての発言の一環であった。
 またこの課題設定については、論文が執筆された際に抱えていた現実的課題を歴史学的に論議し、現在進行形の問題が歴史という時空の変遷によって生成したもので、そのことを踏まえない改革や変革が過去を切り捨て、改革や変革が本質から逸脱していく危険を孕んでいることを警戒・意識したものであった。真宗教団における「坊守」のように、これまでの真宗教団の組織と制度のなかに明確な位置づけがなく、真宗教団の当該の時空のなかで、もっとも機能・役割が変化している地位や立場を、予定調和的観測に基づく非実証的な議論に帰結させることも避けなければならない。このことを踏まえ私は、1992年より真宗教団・寺院の構成員である「坊守」から、自分たちの「坊守」という呼称は「お寺の奥さん、住職夫人の尊称」という見方があるが、それは正しくないのではないか、「坊守」は真宗教団・寺院における役職・地位・機能を示す真宗用語・名詞ではないのか、という問いかけに、このことを真宗史において確認する論議を行ったつもりであった。特に本書に興味を持ち読者として想定される真宗教団の坊守が、拙著が中心に叙述した戦国期真宗を現代真宗の基礎が形成するという真宗史の研究蓄積を踏まえ、あえて安易に近世・近現代までの展望の議論を控え、読者がその後の真宗史の展開でそれぞれの見通し・見解を所持できる形に拘ったつもりである。このような現在進行形で展開している現実的問題から、あるいは当事者からの問いかけを研究課題を設定すること自体がそれほど奇異であるとは思えない。こうしたいわば現実のなかでの歴史学に取り組むことへ、優れた日本仏教史・古代史研究者であるあるはずの評者が、日本仏教・真宗教団・住職・坊守仏教徒真宗門徒への私としての研究成果の中間報告である本書を十分に読み解いて頂けないのは、私には不思議でならない。
 その極め付けが、拙著が結婚する仏教にジェンダーイコール・男女共同参画を求めているが、評者この偏見に満ちた宗教・歴史観が垣間見れ、吉田氏の貧困な思想性が現実に対する歴史学・仏教史学・真宗史が研究者として持つ社会的使命へ鈍感というよりは無神経であるとしかいいようがない。というのは、私は結婚する仏教に男女共同参画ジェンダーイコールを議論したつもりはない。元来は戒律により全面禁止されたはずの結婚をし、家族を持つ僧尼の存在することが、どのような教団・寺院・道場の存在・経営形態をもたらし、そのことをどのように教学的に弁証したのかを論じたのであった。間違っても、先に男女共同参画ジェンダーイコールの前提として結婚する仏教、家族連れの宗教者を描いたのではなく、結婚する仏教、家族連れの宗教者という歴史減少から現代の仏教・真宗の淵原を探ったはずであった。