真宗葬送儀礼の成立から展開(1) -「実如上人闍維中陰録」を読むー

 

 前置き

  蓮如の死の作法については、「蓮如における死の作法」(初出は、1988年、日野昭博士還暦記念会編『歴史と伝承』、『戦国期真宗の歴史像』に収録。1991年)で論議した。今読み直してみると不備で満足を得る論考といい難いので戦国期、「天文日記」・「私心記」を使用した論議を先に公開しておきたい。具体的な論議は、遠藤「臨終・葬送・納骨」・「ある僧の妻における死の意味」(『戦国期真宗の歴史像』第3章)、「戦国期真宗における尼の諸相 -在家尼・後家尼・臨終出家」(初出は、1991年、龍谷大学仏教史研究会『仏教史研究』№28 後に『中世日本の仏教とジェンダー真宗教団・肉時食夫帯の坊守史論― 2007年明石書店)で行っている。

ただし、当時の研究史には、まだ蒲池勢至・石川力山さんらの研究成果が同期的に発表されている時期であった。ために、執筆の段階では参照することができず、発表後に石川さんからは論文抜刷の恵与をいただき、仏教の差別史のなかで葬送儀礼の問題を解いていく必要を痛感させられた。また、蒲池さんからは、民俗学の「手法」を基本とする視点からの真宗葬送儀礼・墓制への議論についての論著を恵与され刺激になった。

 

1 臨終の作法

 本願寺九代宗主実如の「葬送記録」(『実如上人闍維中陰録』 1525年2月2日没)を引用し議論する。(読みやすいように、現代用字と平仮名で引用。

一 二月一日、ちと御験しと申し合わせ候へは、二日の暁七つ時より、御息、差し荒く御入り候て、六つの時分お目を舞わし候間、おのおの肝をつぶし申し候。その時、臨終仏を懸けられ申しそうへは、蓮能より参られ候。代々の臨終仏の写しなり。印金表補絵なり。円如の御時は懸かるる。これは、代々の臨終仏に非ず、印金表補絵なりと御主候き。代々の臨終仏は御土蔵にあるけべき由の御意に候あいだ、すなわち「代々臨終仏」(金鈔表補絵なり)と外題に候を取り出し、上の長柱に懸け申し候。お座敷は端の御亭様の外なり。さて兎角して御心付若子殿、呼び参らせられ物をもよくあそはし候へなどと色々と御申し候。また皆、男は男、女房衆は女房衆ありがたく涙を流し申し候。さて暫しありて、重湯きこしめし候て、程なく御往生に候也なり。辰の剋なり。御年六十八歳「なり。暫しありて、腰障子をは外し、おのおの落涙周章の体を拝し奉るは申す計りもなく候て、余り群集候の間、重ねて御堂にて拝せらるへきとの儀なり。

一 本尊臨終仏、御亭九間の西三間の中に懸け申され候。この間は寝所なり。本尊のお前通りさま障子の菊より、間中計り斗りをきて、横に頭北面東に布団を敷きそのまま置かれ候。八の時分本尊のお前に打置を置き、木目に塗りたる御堂の南の座敷にある打ち置なり、三具足を置かる。(鍮石の亀鶴なり)花は樒、赤蝋燭を灯されお勤めあり。正信偈・短念仏・廻向なり。土呂殿(三河 土呂本宗寺)調声なり。白袖・絹袈裟・木念珠・扇は持たずなり。

※1 「蓮能所」、蓮能といえば蓮如後室である蓮能尼、蓮如第4男越中伏木勝興寺蓮誓息男蓮能が該当するが、両者ともすでに死去している。しかも、大坂より以前の山科本願寺の時期である。ここでは、蓮能尼の隠居した実賢(称徳寺、後に慈敬寺)の後住の堅田慈敬寺実誓の山科寺内の「宿所」と想定される。

 

  • 2 円如、即男 得度し証如 実如 則孫 諸青蓮院得度)。大永元年に逝去(1520年)で、往生の際には、蓮能尼の晩年をともにした実賢(大永3=1523年 逝去)は生存しており、蓮能尼の隠居所=宿所を継承したと考えられるのは実賢と考えてよい。したがって、蓮能尼・円如の逝去の際に使用された「代々の臨終仏の写し」の阿弥陀像は、実賢の跡である堅田(称徳慈を改め)慈敬寺実誓のところで保管されていた可能性が高い。2本の「代々の臨終仏」・「写しの代々の臨終仏」の写しが存在したことが知られ、宗主の逝去にの際は「代々の臨終仏」が本尊として懸けられたことが判明する。
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  • 3 「実如上人闍維中陰録」に記録された「臨終の床」と荘厳・勤行の様子である。臨終儀礼(死の作法)については、類例を紹介した後に論じ、ここでは事例の掲出にとどめる。「実如上人闍維中陰録」を作成したのは、大和飯貝本善寺実孝である。蓮如の第11男であり、本願寺に常住したと考えられる一門衆であり、蓮淳・実従らと証如期の大坂本願寺を支えた。

 

〇 次回は、門徒の臨終儀礼・死の作法を少ない資料から検討してみたい。