禅からみる真宗の葬送儀礼 ー真宗の死の作法を引導する禅ー

禅からみる真宗の葬送儀礼

真宗の死の作法を引導する禅- 

 禅の葬送儀礼の注目すべき先行研究としては、石川力山『禅宗相伝資料の研究(上・下)』(2001年 法蔵館)岡部和雄「『無常経』と『臨終方訣』」(平川彰博士古稀記念会編『仏教思想の諸問題』1984年 春秋社)がある。

 

 岡部によれば、インド仏教においては、僧侶用の葬送儀礼しかなく、葬送用の読誦経典であった『無常経』が義浄により唐代に訳出され、以後、出家者の葬送儀礼で使用されるようになる。ただ、『無常経』を訳出した義浄の『南海寄帰内法伝』によれば、義浄の『無常経』訳出の問題意識には、儒教儀礼に同化する唐代仏教儀礼に対する批判があったと考えられている。以後、『無常経』を中心とする葬送儀礼が中国仏教に導入されるが、宋代には儒教道教との習合が改めて進行した。

宋代の葬送儀礼では、義浄訳『無常経』と、湯灌や死装束についての作法を定めた『臨終方訣』が一体として行われるようになり、『大正新脩大蔵経』(『大正蔵経』)では、両者が一体のテキストを使用して紹介されている。死に装束や、遺体を温湯で清拭い、乱れた遺髪や、伸びたヒゲを整え、療養生活で乱れて汚れた身体を清潔し、温顔に化粧(死化粧)を施す施術が行われた。現在の葬送儀礼に通じる作法がすでに形成されつつあることがわかる。

『無常経』と『臨終方訣』が一体のものとして扱われることの意味を考えてみると、民間習俗をもとにした遺体への死の作法の権威づけにあると考えられる。「臨終方訣」は儒教儀礼の影響が強いと考えられていて、その「臨終方訣」を高僧である「三蔵」の義浄訳という権威を持って格式づけたものであろう。したがって、義浄尾役であるからインド伝来の仏典=「仏説」として取り扱われることを意味した。現在においても当然視されている仏教の臨終儀礼が、「儒教」の色彩が潜り込んで「何気」に行われてきたことを予感させる。

そして、仏式と儒式の合体の背景には、仏教教団における葬送儀礼が出家者(僧侶)に対しての限定的儀礼・特権的儀礼であったことに由来する。つまり、中国社会において、仏教が民衆へ拡大すると同時に、在家者の葬送儀礼も必要となったことが予測され、儒教儀礼解説書である『礼記』などの葬送儀礼を取り入れながら在家用の葬送儀礼も形成しだしたことが予測されている。

石川は岡部の議論を受けて、中国仏教の葬送儀礼形成の前提となるのは、もともとインド仏教にはなかった「在家者用」の葬送儀礼を編み出す際に、中国仏教が、死者(亡者・亡霊)を出家者として扱う方針を打ち出したことに注目する。すなわち、在家者の葬送儀礼は、出家を僧侶が在家者に施すことを意味する引導を中心とする「没後作僧」として登場したことが特色といえる。「没後作僧」という在家仏教徒の死者を僧侶に出家させて、その後に読経・焼香といった葬送作法(儀礼)を行うといったもので、師僧である導師が在家者(死者)を、出家者(僧侶)となす引導(作僧)が儀礼の骨格・中心となる。従って、作僧=出家儀礼であるから、授戒・法名授与・法体(袈裟)への、導師による「転成=引導―在家⇒出家―凡夫⇒成仏」が最も重要になるわけである。

つまり、浄土教の往生浄土を実現するための「臨終来迎」を期するための臨終儀礼とは本質を異とする。特に、禅が真宗の葬送儀礼の雛型となった事情は、覚如が「没後作僧」(史料A ②)を批判し、特に臨終儀礼(臨終来迎・臨終正念)を基本とする、伝統的な浄土教の臨終儀礼を中心とする臨終・葬送儀礼を採用せずに、形式的ではあっても出家=仏弟子の名のりを意味する禅の葬送に注目しても不思議ではない。覚如の禅の「没後作僧」への関心の高さが、「平生業成」の主張へつながったものと考えられる。

従って、初期真宗本願寺における「葬送儀礼」を考える際に、臨終来迎・臨終正念を基本とする天台浄土教あるいは法然門流(浄土宗)への批判と、「尊宿(出家者)葬法」・「没後(在家者)作僧」を基本とする禅への批判を考慮にいれなければなるまい。

<参考> 鎌倉幕府得宗(北条)家における「法名=入道」から「尊宿葬法」の事例

吾妻鏡』において、北条時頼が生前に「法名」を受けたとする。時頼の死去に際しては、史実か否かは確かめがたいが、臨終の折には袈裟を着し衣体を整えたというのである。時頼の断息の際には、故人は結跏趺坐のして臨終を迎えたと伝えられている。禅の臨終儀礼にならって在家者の葬送儀礼の嚆矢といわれている。

ただし、この死の作法は在家者を対象とした「没後作僧」ではなく、いわゆる出家者の禅の葬送儀礼である尊宿葬法である。出家者を対象とした尊宿葬法によれば、臨終後に遺体を安置する龕(がん)泉堂(せんどう)を造り、籠龕(こがん)に亡者を結跏趺坐させる。その上で、故人と弟子や檀家(得宗の場合は、家人や親族か?)に遺体を礼拝させる儀礼が行われたものと考えられている。

史料C 『吾妻鏡』(国史大系本 普及版4巻) 弘長四年十一月二十一日 (途中省略) 戌の刻入道正五位下行相模の守平朝臣時頼(御法名道崇、御年三十七)最明寺北亭に於いて卒去す。御臨終の儀、衣袈裟を着し、縄床に上がり坐禅せしめ給う。聊かも動揺の気無し。頌に云く、業鏡高懸、三十七年、一槌撃砕、大道坦然。

弘長三年十一月二十二日 道崇珍重々々 。平生の間、武略を以て君を輔け、仁儀を施して民を撫す。然る間天意に達し人望に協う。終焉の刻また手に印を結び、口に頌を唱へて、即身成仏の瑞相を現す。本より権化の再来なり。誰かこれを論ぜんや。道俗貴賤群を成しこれを拝み奉る。

<参考> 曹洞宗「切紙」における葬送儀礼

史料F1  近世初頭の「比丘尼戒の切紙」、女性の亡者にたいする「没後作僧」のマニュアル(新潟県諸上寺所蔵)。獲麟が実源より「附授(相伝)」された「切紙」。

 

「(端し裏書き)変化授戒の作法

    比丘尼戒の切紙

師、禅床に上がりて、趺し結跏趺坐して、まず有情・非情の同時に成道の深旨を観念す。しかして、化人をして胡座合掌せしめて、此の文を唱えて云う。根元無生地、錯して業因をなす、今四生を受化す。頓に此の忘心を滅すれば、始終に妙円の性、其の体は自ずから空静なり、三つ唱え了りて、法名を安じて示して云う、本来無位、今「某甲」と名づく、我今汝のためにまさに三帰依戒を授くべし、これを授くは常のごとく血脈を附与し、次に焼香し唱えて云う、南無釈迦牟尼仏と、二十一返。次に処世界如虚空の偈を唱えて退出すなり。

 釈迦牟尼仏摩訶迦葉に付授す、々々(くりかえし)阿難陀に付授す、ないし、是の如く嫡々相承してすでに第幾世に吾に到る、十六の仏戒あり。まず三帰依戒に謂く、「南無帰依仏・南無帰依法・南無帰依僧」。次に三聚浄戒に謂く、「南無摂律儀戒・南無摂善法戒・南無摂衆生戒」。次に十重禁戒に謂く、「第一は不殺生戒・第二は不愉盗戒・第三は不貪婬・第四は不妄語・第五は不酤酒・第六は不説過、第七は不毀自他、第八は慳法罪、第九は瞋恚・第十は不謗三宝」上来の十六条の仏戒、「某尼」に授け畢る、衆生仏戒を受け、即ち諸仏の位に入り、位大覚に同じのみ、これ真の諸仏子、嫡々相承着たりて実源、今獲麟に附す。」

 

史料F2 近世前期の亡者授戒の作法の「切紙」。(埼玉県長徳寺所蔵)

 

「亡者授戒の作法 また別法あり。

 三界六道化道済度の地蔵菩薩摩訶薩に奉請す。ただ願わくは道場に降臨して、菩薩清浄大戒を授け、(三返)。今日没故の「某(なにがし)」の亡者に、各各の「名」を入れ、汝が今身より仏身に至るまでよく持せ。南無帰依物・南無帰依法・南無帰依法、三返。帰依仏両足尊・帰依法離欲尊・帰依僧和合尊、三返。帰依仏竟・帰依法竟・帰依僧竟、三返。汝ら善男女人、三宝の前に対し、大懺悔をおこし、三返、摂律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒、よく持ちて、三返。上来の宿梵網心品を殊勲所集し、回向、真実実相、荘厳無上、仏果菩提(菩提のこと)・伏願、垂此戒一絲頓超受生於梨中、正覚於いて大涅槃岸に成ず。」(以下、「即通之参」は省略。)

 

史料F3 近世中期の墓所・中陰・年回などの亡者・追善供養の作法に冠する「切紙」。(埼玉県長徳寺所蔵)

「献霊供の切紙

まず本尊前に進みて焼香し、仏餇を献じ諷経す。次に維那導師に向い問訒して亡者の位牌の前に進み、焼香し生飯を取り、香烟の上に薫じ、点じて唱えて曰く、上は三宝に分け、中は師恩に報じ、下は六道に及び、みな同じく供養すと唱え了て、生飯を盤の側に置き、筯を飯上に挿し、念想して曰く、堅に三際に亘り、横に十方に窺む、次に点じて、亡者の法名を唱えて、眨眼注視して、また焼香し合掌して黙して唱えて曰く、三輪清浄・三輪空寂・三輪合観、と此の如く三たび唱え了て、転身して導師に向いて問訒して位に帰る。導師位牌の前に進みて、焼香観想して位に帰り一輯して、此の時の維那は経を挙げるなり。

 右嫡々相承大乗卍山和尚至吾矣、吾今伝秀叟、

   享保拾七壬子歳、附与す湛海丈」

<参考> 「授戒作僧」は社会的身分別 -「諸回向清規」の法名(位牌)規程-

 

 1566(永禄9)年に臨済宗夢窓派の清規と考えれている「諸回向清規」(『新修大正大蔵経』81巻)に在家に対する「授戒法名」・「没後作僧」のマニュアルが示されてる。『諸回向清規』巻4「僧俗男女位牌」の上頭・中・下につける文字についての規定が記されている。亡者の位牌にどのように戒名(法名)をどのように記すべきかである。「僧俗男女位牌之上頭文字」の中から位牌の上の文字の凡例を抜粋してみよう。

先ず、和尚の位牌の上の文字は「前住当山」、平僧の場合は「寂滅」・「遷叔」等と書き、太上法皇は「○○院」、将軍・一国の太守・国号の武士に対しては「○○院殿」・「○○官州名」、一般には「物故」・「帰故」・「逝去」・「過去」・「遷去」等を書き、山伏は「達故」と書くべしとある。

次に「僧俗男女位牌之中文字」の中から位牌の中位の文字の凡例を抜粋してみよう。開基あるいは国師・尊宿には「○○国師大和尚」、前住長老には「○○和尚大禅師」、平僧には「禅師」、参禅の武士には「居士」・「女居士」、武家には「信士」「信女」、高家武家には「大禅定門・尼」、平人には「禅定門・尼」、平人の奴僕には「禅門・尼」、小児には「童男・童子・童女」、山伏は「大徳」といった具合である。

位牌の下に書く「僧俗男女位牌之下文字」の凡例を抜粋してみよう。尊宿・一国之太守には「尊霊」、平僧・高位の武家は「覚霊」、皇家は「尊儀」、天下将軍は「臺霊」、平人には「霊位」、山伏には「叔山」、貴人の夫人には「叔儀」、女性には「叔魂」というように記せとある。  『諸回向清規』は、もとより戦国期の臨済五山における儀式書であるから、当時、五山に関与する、する可能性がある身分に応じた規定がなされていたものである。その際に、注目しなければならないのは、葬送にあたって「法名(戒名)」授与の方法が、亡者の生前の社会的身分に応じてなされていたという事実である。 『諸回向清規』は、臨済五山の儀式書であるから、想定される壇那の身分も限定されるが、禅が村落や都市に展開した場合に、当然、同じように多様な身分に応じた儀式が編成され、亡者の生前の社会的身分に応じてなさる限りにおいて差別「法名(戒名)」の発生は必然であった。

また、石川氏は駒沢大学図書館所蔵の、永平寺30世恵輪永明禅師(1670年没)の所伝本と目される『室内切紙謄写』に写された没後作僧の「切紙」(「差別切紙」と断定)を紹介している。(和漢混交文)

<参考> 「『諸回向清規』が定める葬送儀礼」(配布資料の一部を抄出)

『釈氏要覧』(宋 1020=天禧4年)巻下、「瞻病・送終」に、比丘・比丘尼の葬送儀礼・墓制が記されている。

詳細な葬儀の差定は記されていない。浄土教の臨終儀礼(看病・看死・来迎・正念等)を中心とする死の作法は成立しているが、葬送儀礼を中心とする仏式の死の作法が成立するのは、12世紀に成立した『禅苑清規』であり、大まかに「尊宿葬法」と「亡僧葬法」が規程されている。また、臨済禅(宗)=南禅寺派が、16世紀に定めた「諸回向清規」には、葬送儀礼に関する規程を詳細に記載している。

 

「禅苑清規」巻7

「小師龕幃の後幕下にあり、孝服を具し龕を守る、法堂の上に排了を安ず、喪主已下、真に礼しおわんぬ、然る後に知事頭首孝子大衆、喪主と相見える、喪主己下次第に相慰め、外人弔慰あるが如し、外に知客を引き堂上に到る、内に知客を引き真前において焼香し、礼に致りおわんぬ。喪主知事首座と相看て、来りて幕下に却りて、孝小師を慰む、」

「伏願、神浄域を超え、業塵労を謝し、蓮上品の華を開き、仏一生の記を授け、また云う、再び尊衆を労す、十方三世等に念ず」

<◎ 未完>