福岡組法式部(研修会) 「人類はなぜ埋葬するのか」 -~仏教の中での葬儀の意義 その2~

3 義浄が伝えたインド仏教の葬制 

  ~「南海寄帰内法傳」と「無常経」の訳出~

 

A 義浄による『無常経』請来(漢訳)の意義

 ㋑ 仏式による葬送儀礼の提案

 

 インド仏教は、「無常経」を中心とする、出家者に対する「葬送儀礼」として誦経用経典を伝承していた。この、中国(唐代)に至っても仏教教団は、仏式独自の葬送儀礼や誦経用経典を所持しておらず、大まかな言い方をすれば、儒教の服喪儀礼を依拠しながら「葬送儀礼」を展開していた。唐代に至り、インド伝来の仏式葬儀の導入・運動が生じ僧尼(出家者)の「葬送儀礼」が成立してくる。具体的には、「七七日・中陰」の提案が、儒式の服喪からの独立させ、「無常経」という葬送儀礼用の経典が訳出される。

 

<注記> ㋑ 無常経」は、訳出後に遣唐使を通じて、すでに日本へ8世紀中に伝来したと考えられている。(岡部和雄)仏典の古代における日本への伝来は、以外に早い。例えば、道昭(奈良・大安寺)が請来した経典の目録には、善導「五部九巻」が請来しているという。(中井真孝) ㋺ ただし、出家者(僧尼)・寺院内に限定されている。(在家仏教徒の葬儀については未関説。)

 <参考史料> 義浄撰、宮林昭彦・加藤栄司訳『現代語訳 南海寄帰内法伝』2004年 法蔵館 P149以下>中国仏教喪制の非 仏教的展開、(インドとは異なり、中国では)死後の際に漫りに(中国の伝統に則った儒教風の葬送儀礼)礼儀を設けている。(それはたとえば、)或いは復俗(儒)と同じく哀しむ(様を人に見せ自分は親を失ったのだと誇示する)ことをもって(親に)孝(をつくす)子と為ることであり、或いは房に霊机(、すなわち儒教風の祭壇)を設けることをもって供養と作ていることなどである。(また、それは)或いは黲布を披っていることで(自分の状態が親の不幸にあって)恒式とは乖ったいる(ことを示す)ことであり、或いは長髪を留めて(髪も髭も茫々、身体髪膚を父母に受け、その父母を亡くして、今その恩を噛み締めていることを人に示し、これまた恒常の生活の中の規)則とは異なる(状態にあることを表す)ことであり、或いは(悲しみのあまり身体弱り)哭杖で(身体を)拄え(なくてはならない様を人に示したり)、或いは(寝所を別にして、わざわざ)苫(莚のある喪服用の仮小屋である倚)蘆に寝る(等々のことをする)のである。斯れ等(のこと)は咸(中国の儒教の伝統に基づく葬送法なのであって、インドの仏教本来の)教(誡・律)儀ではなく、(さればこのようなことは仏者としては、当然ながら)行わなくとも過ちはないのである。

(では、仏者としてなすべき葬法とはどのようなものなのだろうか?インド仏教本来の葬送法の正則とはどのようなものかといえば、道)理として、其の()亡者の為に一房を浄らかにこそ飾るべきなのである。或いは時に随って権に()蓋や()幔を施し、読経、念仏し、具に香や花を設けて、亡魂を善処(浄土)に託生させようと冀うのである。(このようにしてこそ、儒教でいう孝子・報恩の定義はいざ知らず、仏教では)方(始)めて孝子と成るのであり、(方)始めて(父母)の恩に報いることになるのである。

 豈可(儒教に言う孝子の様式たる)“泣血三年(血涙を絞り声無きこと三年、歯を見せて笑うことすらしない)”を将って(父母の)徳に賽いることに為り、“不餐七日(亡くなって七日間、食事をとらない)”にして(方)始めて(父母の恩)に報いるに符う(などといえる)のだろうか(? 否、言うまでもなく、そのようなはずはないのだ)。斯(のような儒教風の葬送儀礼)は重ねて塵労を結び、更に(一層迷いの)枷・鎖を嬰らす(ことにしかならない)のだ。(このような中国の仏者は、)闇から闇に入り(小乗羅漢の)縁起の三節(過去・現在・未来の三世にわたり各自の背負った業が因となり果となる両重の法)を悟りはしないし、死より死に趣くなどして詎して(大乗菩薩の)円成の十地(菩薩・仏の十段階・十世界、すなわち①歓喜地、②離垢地、③発光地、④焔慧地、⑤難勝地、⑥現前地、⑦遠行地、⑧不動地、⑨善慧地、⑩法雲地)を証らめるだろうか。(否、とても菩薩の十地を証らめなどしてはいないのである)。

 インド仏教喪制の正則 然し仏(の)教(え)に依るならば、(葬送の儀礼は、まず第一に)苾蒭の(死)亡者が決らず死んでいる(や否や)を観(て)知る(、にはじまる)。(葬儀の)当日は(死体を)舁いで焼処に向かい、ついで火で之を焚く。之(の死体)を焼く時に当たっては親友が咸集まって(、傍らの)一辺に座る。(その座処はと言えば、)或は草を結んで(台)座と為し、或いは土を聚めて台(座)と為し、或いは(焼いた煉瓦の) )甎石を置いて座物に充(当)てる(などしている)のである。 (その次に、)一人の能者に『無常経』を(読)誦させる。(この経は小さいもので)半紙か一紙(程度)、(中国のように読誦が長時間に及び、参列者)を疲久させるようなことはない。

  <義浄の原注>

 其の経(『無常経』は別に録して、(本書に)附して(、ともども献)上する(こととしたい)。その後で、各(自)が無常(死)を念いつつ住処に還帰る。(しかし、自房に入る以前に)寺外の(洗浴)池の内で衣を連ねて並(洗)浴する。(このような専用の洗浴)の池の無い処では、井(戸)にいって身(体)を洗う。(そのため、中国とは異なりインドの葬儀には)皆故(ふる)衣を(著)用してゆくのであり、新(造の)服を損なうようなことはないのである。(洗浴の後、)、別に乾いたものを著て、然後(、はじめて各自の房に帰る(ことになる)。

 (その各自の房も床部分)地は牛糞(ごふん)で浄塗しておくが、(中国伝統の儒教風厚葬とは異なり、インドでは以上の)余は並皆(葬儀以前の日常生活に変わるところはなく、)故の如りなのである。(すなわちインドでは中国とは違い、服喪に関わる)衣服の儀も、(服喪中だからといって殊更に喪服に改めるなぞなく、いまだ)かつては片しも(普段の生活と)別(異)のことはないのである。

 (火葬の後には)或いは設(せつ)利(り)羅(ら)(sarira 骨)、を収めて、(死)亡人の為に塔を造ることもある。(これは)倶攞(くら)kula 塚)と名づけられ、形(状)は小塔の如である。(この小塔)の上に輪蓋は無く、しかも塔には(、その死亡苾蒭による格づけがあり、凡夫善人から如来までの)凡(夫)・聖(人)の(区)別があるのである。(これについては)律(蔵)のなかで広く論じている。

 

中国仏教者への提言 豈容して釈父の聖教を棄てて周公(すなわち儒教)の俗礼を遂い、号咷数月(泣き叫ぶこと数カ月)、布服三年(喪服を着ること三年)、などということをするのであろうか(否、このような儒教儀礼は、仏者ならばすべきでないのである)。

かつて(私・義浄)は、霊裕祐師(518~605)が(如上の儒教風葬儀礼を自、他に)挙発(おこない・おこなわせる)ことをせず、(儒教儀礼にいう)孝衣は著ずに(仏の教えに従って故人、すなわち)先亡を追念して(釈父の聖教に則った)福業を修めたと(、母国中国にあったときに)聞いたことがる。京洛(、すなわち洛陽)の諸師にもまた斯の(霊祐法師の途)轍に遵ったものがあったのでる。(が、しかし)或る人はこれを(中国の伝統文化よりして)非孝に以為うのかもしれないが、(その人)は寧して更に(この霊祐法師のように儒教風葬送を排して、仏者として振る舞ったことこそが、釈父の聖教、釈迦金口(こんく)の)律(蔵に記されている)旨(趣)に符っていることを知っているのだろうか(否、決して知りはしないのである。)

 

B 義浄の仏式による葬儀の普及運動

 義浄の「無常経」による葬送儀礼の紹介以降、インドから伝来した葬送儀礼は、僧尼を対象とするものであり、在家仏教徒の葬送儀礼は伝来しなかった、あるいは、存在しないと意識されていた。従って、義浄が行った仏式による葬送儀礼の普及運動は、出家者(僧尼)・寺院内に限定される限界を有してした。

戦国期真宗教団は、禅の葬送の作法に七尾ながら蓮如教団において定型化した儀礼を形成した。戦国期の史料を検討すると、「作僧(作相)」と正信偈の読誦・読誦中の焼香を基本としていた。(「臨終・葬送・納骨」『戦国期真宗の歴史像』1992)

「無常経・臨終方訣(ほうけつ)」は、インドで紀元前後に成立した経典に「無常経」があって、上座部(部派)仏教において葬送儀礼を目的に編纂された経典であると考えられている。(岡部和雄)中国(宋代=12世紀頃)に「無常経」に当時の中国の民間で行われていた臨終儀礼のマニュアル書である「臨終方訣」が付け加えられ、「仏説無常経臨終方訣」という一巻の経典になった。中国式の臨終儀礼が、ブッダ(釈尊釈迦牟尼如来)の直説(仏説=ブッダの説法)による、という権威化が行われ、鎌倉時代禅宗とともに日本へ伝来した。インドから伝来した「仏説 無常経」は、紀元前後にインドで出家者(僧侶)の葬儀・中蔭の際に読経された経典である。中国には、唐代(7世紀中頃)に、義浄(三蔵法師)により請来され漢訳され、葬儀用の経典として使用された。「無常経」は、内容的には「諸行無常」を説く短い経典で、儀式や作法については全くふれていない。ただし、義浄のインド紀行記『南海寄帰内法伝』には、「無常経」の読誦を中心とした南インドの寺院における葬送の様子が記されている。

  <資料>

義浄が記したインドの葬儀

 

○   インド(ナーランダ寺院周辺の仏教、出家者)の葬儀では、亡き人のために、臨終にあったっては、亡者の房室を清浄に飾ることを基本とする。

 

<臨終の儀礼

①   臨時に天蓋・幔幕を遺体の上部に施す、②臨終にあたり経典を読誦・念仏、②香と花を設ける。(霊魂の善処への託生を冀うため)

 

火葬・無常経の読誦・帰宅後の沐浴

<葬送の儀礼

①   亡者の死亡を観て確認、②死体をかついで焼処へ、③火で遺体を焼く、④焼くにあたっては、親友が咸あつまって傍らの一辺に座る(座処は、草を結び座となし、土を集めて台座となし、焼煉瓦で座物に充てる、④一人の能者に『無常経』を読誦させる。⑤帰宅後は、衣服を洗濯し沐浴する。

<納骨・造塔>

  骨(設利羅=sari-ra) を収めて、亡人のために塔を造る。これは倶羅(kula=塚)と名付けられ、形状は小塔の如くである。ただし、塔の上には輪蓋はなく、死亡した苾蒭による格付けがある。(凡夫・善人から如来までの区別があり律蔵に詳しい。)

義浄が記したインドの葬儀

  • インド(ナーランダ寺院周辺の仏教、出家者)の葬儀では、亡き人のために、臨終にあったっては、亡者の房室を清浄に飾ることを基本とする。

 

  • 臨時に天蓋・幔幕を遺体の上部に施す、②臨終にあたり経典を読誦・念仏、②香と花を設ける。(霊魂の善処への託生を冀うため)。

 

火葬・無常経の読誦・帰宅後の沐浴

<葬送の儀礼

  • 亡者の死亡を観て確認、②死体をかついで焼処へ、③火で遺体を焼く、④焼くにあたっては、親友が咸あつまって傍らの一辺に座る(座処は、草を結び座となし、土を集めて台座となし、焼煉瓦で座物に充てる、④一人の能者に『無常経』を読誦させる。⑤帰宅後は、衣服を洗濯し沐浴する。

 

<納骨・造塔>

  • 骨(設利羅=sari-ra) を収めて、亡人のために塔を造る。これは倶羅(kula=塚)と名付けられ、形状は小塔の如くである。ただし、塔の上には輪蓋はなく、死亡した苾蒭による格付けがある。(凡夫・善人から如来までの区別があり律蔵に詳しい。)

 

(以下、続稿)