2013219(火)福岡組法式部(研修会) 於専立寺

「人類はなぜ埋葬するか」

  ~仏教の中での葬儀の意義~

<目 次>

 

1.「問題の所在」

  ~「葬儀」の歴史を知ることの意味~

( 今回は、改稿の準備のために留保・未発表)

 

2.「インドにおける仏教独自の葬送儀礼は未発達」

 

3.「義浄が伝えたインドの葬制(葬送儀礼)」

 

  ~『南海寄帰内法伝』と『無常経』の訳出~

 

4.義浄の仏式葬儀普及運動の特色と限界

  ~『無常経・臨終方訣』の世界~

 

  • 配布資料 

 

(A) 「緒言」・「後記」『浄土真宗本願寺派葬儀規範集』(昭和61=1986年初版の抜粋)

 

(B) 『ブッダ最後の旅』~大バリニバーナ経~(中村 元訳 一部=関連部分)

 

(C)① 『大唐西域記』(水谷真成訳 一部=関連部分)

 ② 義浄『南海寄帰内法伝』(漢文の書き下し。現代語訳は「要旨」編 P7以下。一部=関連部分)

 

(D) 『無常経・臨終方訣』(伝義浄訳、「臨終方訣」のみ書き下し)

 

(E) 「葬儀」をめぐる習俗・俗説・迷信「用語解説集」(№1 暫定版)

 

2.「インドにおける仏教独自の葬送儀礼は未発達」

A 伝承されている原始仏教の葬儀観

 ここでは、現在に履行されている浄土真宗本願寺派の「葬儀(葬送儀礼)を理解するために、わたくしが必要と考えたインド仏教においての葬送儀礼を工具刷する。したがって、特色と限界は、浄土真宗本願寺派から見てうえでの、本願寺派史観に基づいての議論であり、極めて、本日(福岡教区福岡組法式部 研修会)も真宗仏教の儀礼を足掛かりにsていることは言明しておく必要がある。

 インド仏教というよりは、仏教という宗教の開祖ブッダ釈尊)の葬送をどのように伝承してきたのか、から見ておくこととする。

 

ブッダの葬送儀礼であるから、わたくしたちが注目してみてきたのが、『ブッダ最後の旅』~大パリニッバーナ経~(中村 元訳 岩波文庫 1980年 P131以下、172以下) 、「涅槃経」である。「涅槃」とい経典は異本が多く伝えられ、そこから事例を引き出すこと自体は難しいものと考えられる。ここではあえて中村 元訳のものに依拠し、現在の私たちからみて最も至便といkとからである。

ブッダ(釈尊)の死去(涅槃)の際に行われた「死後の儀式」の叙述がある。特に、釈尊の遺言(遺訓)として次のように伝える。(いわゆる「原始涅槃経」のブッダの葬送)個条書きにすると次のようになる。

 

(A) 出家の弟子たちは、遺骨の供養(崇拝)にこだわらず、修行に集中すべきであると遺訓

(B) 遺骨の供養・崇拝は、熱心でかつ富裕で有力な信者(在家)によって行われる。

(C) 火葬(遺体の処理)は、インド(現世)を支配する転輪聖王(帝王)と同じく、一般的に丁重な火葬・埋葬の方法とする

(D) 出家者の仏弟子は、火葬し収骨した後、遺骨は各地(各地域)の中心地にストウーパ(塔)を建立し供養(崇拝)する

(E) 在家信者は、ストウーパ(塔)に、花輪・香料・顔料をささげて礼拝する。在家信者の、塔(遺骨)を供養(崇拝)し心静かに信ずる人びとには、長い間の利益・幸せがもたらされる。

 

 

 

B ブッダの火葬について(『ブッダ最後の旅』P173)

 

次に、ブッダのの荼毘(火葬)についての叙述である。

 

イ マッラ族、祠堂(マッラ族の葬送の場)の前において、火葬のために薪が積み上げられる。

ロ 代表一人が、衣を左肩から体にかけて合掌し、薪の上のブッダの遺体に対して3回にわたり、右まわりにして、遺体の衣の裾をめくり、ブッダの足に頭をつけた。

ハ 代表に続いて、500人の参列した出家修行者が、代表と同じようにブッダの遺体に対して礼拝を行った。

ニ 尊者カッサバと修行者の礼拝が終わったときに、ブッダの遺体が安置された積み上げられた薪が燃え上がった。C ブッダの遺骨について(『ブッダ最後の旅』P174)

 さらに火葬後の収骨については、次のようにしている。

 

あ 収骨の様子は、ブッダの火葬による各地へのストウーパ(塔)の造立を知った各地の有力者たちは、遺骨の分配とストウーパの造立を申し出る。『ブッダ最後の旅』「26章 遺骨の分配と崇拝」によると、次の通りに分配された。

収骨の様子は、ブッダの遺骨を収容したストウパ(塔)を各地の中心地に造立しようとことを知った有力な弟子たちが、次のとおりに遺骨の分配を申しでた。

  1. ⇒ マガタ国ヴィハーディ王の王女アジャサットウ、②⇒ヴェーサリーに住むリッチャヴ族、③⇒ カピラ城のサーキヤ族、④⇒ アッラカッパのブリ族、⑤⇒ ラーマ村のコーリヤ族、⑥⇒ ヴェタディーバに住むバラモン、⑦⇒ バーヴァーのマッラ族、である。
  2. 従って、2人の個人と(マガタ王女マジャータサウトウとヴィタディノバのバラモン、と5部族(リッチヴァ族・サーキヤ族・ブリ族・コーリヤ族・マッラ族(クシナガラのマッラ族とは別)が、遺骨の分配とストウパ(塔)造立を要求する。

とことが、クシナーラのマッラ族は、自分たちの土地(村)でブッダが亡くなったことから、遺骨の分配を拒むことを表明。

(う) この要求が行われた時に、ドーナ・バラモンが仲裁に入り、最上の人(ブッダ)の遺骨のために人びとが争うのはよくない。故に、皆で一致協力しよろこび合って分配することを提案した。その結果に、

最終的に遺骨の分配方法は次のように決定したと伝える。

 

マガタ国王女、②⇒ヴェーサリーのリッチャヴ族、③⇒ カピラ城のサーキヤ族、④⇒ アッラカッパのブリ族、⑤⇒ ラーマ村のコーリヤ族、⑥⇒ ヴェタディーバのバラモン、⑦⇒ バーヴァーのマッラ族、⑧クシナガラのマッラ族の計8其のストウパ(塔)、⑨⇒ ドーナ・バラモンは瓶のストウパ、⑩⇒ ピッパリのモーリヤ族は灰のストウパ、

 

つまり、8塔・1瓶・1灰の計10に分配されたというものである。

 という内容になる。

 

C ブッダの遺骨について(『ブッダ最後の旅』P174)

 さらに火葬後の収骨については、次のようにしている。

 

あ 収骨の様子は、ブッダの火葬による各地へのストウーパ(塔)の造立を知った各地の有力者たちは、遺骨の分配とストウーパの造立を申し出る。『ブッダ最後の旅』「26章 遺骨の分配と崇拝」によると、次の通りに分配された。

収骨の様子は、ブッダの遺骨を収容したストウパ(塔)を各地の中心地に造立しようとことを知った有力な弟子たちが、次のとおりに遺骨の分配を申しでた。

  1. ⇒ マガタ国ヴィハーディ王の王女アジャサットウ、②⇒ヴェーサリーに住むリッチャヴ族、③⇒ カピラ城のサーキヤ族、④⇒ アッラカッパのブリ族、⑤⇒ ラーマ村のコーリヤ族、⑥⇒ ヴェタディーバに住むバラモン、⑦⇒ バーヴァーのマッラ族、である。
  2. 従って、2人の個人と(マガタ王女マジャータサウトウとヴィタディノバのバラモン、と5部族(リッチヴァ族・サーキヤ族・ブリ族・コーリヤ族・マッラ族(クシナガラのマッラ族とは別)が、遺骨の分配とストウパ(塔)造立を要求する。

とことが、クシナーラのマッラ族は、自分たちの土地(村)でブッダが亡くなったことから、遺骨の分配を拒むことを表明。

(う) この要求が行われた時に、ドーナ・バラモンが仲裁に入り、最上の人(ブッダ)の遺骨のために人びとが争うのはよくない。故に、皆で一致協力しよろこび合って分配することを提案した。その結果に、

最終的に遺骨の分配方法は次のように決定したと伝える。

 

マガタ国王女、②⇒ヴェーサリーのリッチャヴ族、③⇒ カピラ城のサーキヤ族、④⇒ アッラカッパのブリ族、⑤⇒ ラーマ村のコーリヤ族、⑥⇒ ヴェタディーバのバラモン、⑦⇒ バーヴァーのマッラ族、⑧クシナガラのマッラ族の計8其のストウパ(塔)、⑨⇒ ドーナ・バラモンは瓶のストウパ、⑩⇒ ピッパリのモーリヤ族は灰のストウパ、

 

つまり、8塔・1瓶・1灰の計10に分配されたというものである。

 

D 『ブッダ最後の旅』が伝える釈尊の葬儀とは 

~どのような伝承として読むべきか~

翻訳者中村元「解題」・「訳注」によれば、「経典」という、あくまで主人公ブッダの物語を基調にしていて、物語である以上は「歴史的真実性に乏しい」という限界を意識しながらも、ブッダ仏弟子に自らの涅槃(死去)に際する際の指示・教示として、「正しい目的のために努力せよ」(『ブッダ最後の旅』本文P132)への訳注に、「仏教の修行僧は、自分の収容につとめることだけせよ。葬儀などやるな、という思想は原始仏教経典にまま散見するが、ここにも現れているのである。またブッダの遺骨崇拝も世俗人のやることであり、出家修行僧のかかずらうことではないと考えていた」(P280の訳注=第5章、18節「病い重し」)

 原始仏教において、中村元は、

 

 a 出家修行僧は、葬送儀礼に対して冷淡な態度を取り、独自の儀礼・作法は存在しない。

 b ブッダ(仏陀)の荼毘は、ストウーパの造立や供養は在家信者によって行われ、出家修行者たちは布施(信心と供養)の対象として招かれた。

 c 原始仏教において、独自の葬送儀礼はなく、インド古代のバラモン(司祭身分)、あるいはクシャトリア(権力支配身分)の葬法により応用された

 

という見通し(推定)を述べられた。(「解題」『ブッダ最後の旅』) ⇒ <補注参照>

 

 <補注> 静谷正雄{原始大乗仏教論}とも合致し、インド古代仏教史では異論が少なく大方承認されたものといえる。

 

 イ 大乗仏教の始原を、ブッダ在世中の非出家者=在家信者集団と想定。 ⇒ 葬儀を重視する社会集団(在家仏教信者集団)

 

 ロ とくに仏陀の死にあたっては、その対応に出家者集団と、その大きな温度差を持つ。 ⇒ 出家者集団からの自立した信者集団=原始大乗の存在・成立へ

 

 ハ 在家信者集団、特にブッダ死去(火葬)後の特色

  ㊀ 釈尊仏陀への「全人格的思慕」⇒ 造塔供養からはじまり、仏陀の教え・身体的特質・を全人格に表現する「仏身」(信仰の造形的表現)を求める

 

  ㊁ 仏陀の遺品(骨灰)への敬慕・崇拝⇒ ストウパ・舎利の造立と、それ自体への「信心(礼拝)と供養(布施)」

 

  ㊂ 仏塔(ストウパ)の崇拝と護持のために出家修行者への「布施」⇒ 在家信者からの「布施」に対して、出家者は経典読誦・説法・儀礼の執行…のといった宗教行為・儀礼を執行・提供 ⇐ インド古代仏教史では、出家者の系譜は、根本説一切有部(上座部仏教小乗仏教の淵源)の一派へと展開したと考える

 

E 三蔵たちの報告に見るインド仏教の葬送儀礼

  • 前節で述べたとおり、義浄(635~713年)は、スマトラ島(現 インドネシア)へ滞在中に「南海寄帰内法伝」を期し、インド仏教の葬制を中国に普及させようと「報告」⇒ 南インド(滞在・留学)時の見聞と研究・実習の結果 ⇐中国の非仏教的葬制を廃し、「無常経」による葬制を紹介し普及させようと企図した。

 

a インドの僧たちは、中国儒教儀礼解説書である「礼記」(紀元頃に成立)「喪大器」の「哭礼」といった儀式は定められいない。

b 出家者の父母の死にあたっては、父母(生)の恩に報いるという思いは大切にされている。

c 葬儀は丁重に行われる。儀式は故人の冥福のために行われる。

  • <7~8世紀の入印僧の報告>

 

イ 中国、「儒教」の葬制と比較して、異なった点が多く質素である

 ロ 出家者に対する葬儀の記述のみしか見当たらない(インドの在家仏教徒の葬送儀礼については関説がないので不明である)。

 

 ハ 出家修行僧の葬送儀礼については記述がある⇒ 無常経・荼毘(火葬)・造塔(収骨)

少なくとも7C段階のインド仏教(もっとも8世紀頃から、仏教自体がインド社会において衰退)

⇒ 仏教独自の葬制は未発達といえる

⇒ 出家者対象の「無常経」が葬送用読誦経典として流布

⇒ 在家信者の葬制は、インド社会(ヒンドゥー世界)の葬制に従っていた可能性大