見真大師」号と「勅額」

見真大師」号と「勅額」 浄土真宗の宗祖である親鸞は、1876(明治9)年11月28日に「見真」の大師号の宣下を太政官より受ける。見真なる大師号は、明治政府へ東西本願寺専修寺仏光寺興正寺錦織寺真宗六派の住職が連名し内願し、明治天皇より贈られた「諡号」である。東西本願寺は、1879年9月29日に明治天皇の「見真大師」を宸毫による額の下賜を受ける。天皇の宸毫を額装したものであるため、政府は「勅額」と名付けて下賜した。そして、現在の東西本願寺の御影堂に奉懸されている勅額は、明治天皇の宸毫をもとに作成された複製である。1882年3月22日に宮内省より、天皇の印璽(「御名御璽」)の押印を受けることにより、明治天皇の宸毫をもとに製作された勅額であるという認可を受け、東西本願寺の御影堂外陣正面に奉懸された。高田専修寺もこれに続いた。

 さて、見真大師については、東本願寺では1981年の「宗憲」改正の際に大師号の使用が廃止され、西本願寺でも2007年の「教章(私の歩む道)」において使用が停止された。ともに「見真大師」という親鸞に贈られた諡号に問題性を見てとっての措置であると思慮される。残念ながら、東西本願寺の宗政当局から、宗祖である親鸞明治天皇より、個人の業績を讃えるために尊称として贈られた諡号である見真大師使用停止の事情の説明はなされていない。ここでは、なにゆえに見真大師という天皇よりの諡号浄土真宗の宗祖に贈られた尊称・別称として不適切だと思慮されるのかを考えてみよう。

 見真大師号と勅額が受け入れられない理由は、(1)真宗の教えからの問題点、(2)真宗儀礼・荘厳からの問題点、(3)歴史上からの問題点の3点を大掴みにあげることができる。

 まず、真宗の教えから上の問題点は、そもそも大師号は優れた業績の高僧へ追贈した諡号ということである。これは、見真が、『大無量寿経』の「五眼讃」の「慧眼見真 能度彼岸(慧眼は真を見てよく彼岸に度す)」を出典とし、真宗に相応しいと主張しても、これは大師号を明治政府へ教団側が内願した経緯があり、名前が相応しいのは自作であるゆえ当然であった。問題なのは、諡号は国家が故人へ贈る尊称であり、勅額は宸毫による書き出しで、奉懸されている額装(見真額)はその複製であるということである。つまり、死者の生前の業績を評価し、天皇から賜った尊号として額装して奉懸することが真宗の教えに照らして、果たして然るべき行為であったか、である。諡号が故人の生前の業績に従って作成され、位牌を見ればどのような社会的身分を持った死者であったが一目瞭然にして、死者の評価を現世の身分・階級により儒教式の「位牌」を彷彿とさせる。本来、真宗における仏法上の名告りは「法名(釈○×)」であり、社会的地位・身分・業績は関係なく、真宗門徒であることの表白である。従って、東西本願寺が教団的課題とする、法名門徒の社会的地位・身分に反映させてきた差別の歴史と決別し、本来の法名の名告りをと願う立場からすれば、地位・身分・業績の国家評価を受けた大師号は、真宗の教えに対立すると考えるのが通常である。

 第二点は、礼拝施設である御影堂の儀礼・荘厳の問題として勅額奉懸である。何といっても、勅額は宗祖親鸞への見真大師という諡号を、明治天皇の宸毫から金泥文字で複製し金襴彫刻で額装した。これを外陣とはいえ御影堂の正面に掲げ、この勅額へ参詣し仏事勤行に参加する真宗門徒は礼拝することになる点である。外見的には、真宗には不必要な「位牌」を仏壇に置いたり、また、仏間の上部にに真宗の荘厳と関係ない物を掲げ、そこを目掛けて礼拝するのだから、仏壇の上に神棚や十字架を置くに等しいという意見もある。そして重要なのは、もとより東西本願寺御影堂には、大師号宣下以前に勅額は存在せず、額を奉懸すること自体が、御影堂の荘厳や勤修される儀礼に反するという見方である。

 第三点が、大師号と勅額の日本仏教史における特異な性格である。大師号は真宗に限らず、日本仏教各宗の宗祖・開基・中興と呼ばれる僧侶に追贈された天皇からの諡号である。866(貞観8)年7月に清和天皇より日本天台の開祖最澄伝教大師延暦寺横川中堂開基圓仁へ慈覚大師の宣下が嚆矢である。現存の大師号宣下の原本は圓珍の智者大師が最古の伝来で、圓珍への大師号「宣旨」により、天台宗真言宗天皇諡号である大師を望んだ事情が垣間見れる。平安時代以降、日本で新しい仏教の宗派が形成した場合、宗派としての独立は、寺院としての本山は門跡寺院となることにより運営組織を組み上げ、本山の住持は僧侶界のトップである大僧正として宗門の僧侶を生産・管理し達成いた。ところが、教団成立期のそれぞれの本山は寺院社会での格も低く何れかの宗の傘下に間借し、宗祖と呼ばれる人物でも僧侶としての位もそう高くはなかった。大師号は、日本における寺院社会という身分・差別のなかで、当初は新興勢力であった各宗派が、天皇上皇より「大師号」を諡り名されることにより、皇室を仏教教団のオーナーとして推戴することが可能になり、日本社会への定着が完成していくわけである。

とすれば、真宗の宗祖親鸞は流罪後に無位無官となり、非僧非俗の宗教者という自己規定により宗教活動は支えられた。また、寺院組織とは無縁に過ごし、終の住処は天台僧である弟尋有の里房三条富小路善法房であった。こうした生涯を送った親鸞への大師号、親鸞へ大師号を宣下した明治天皇を、あたかも真宗という仏教教団のオーナーとして推戴した象徴である「勅額(見真額)」であるということになる。750回忌の御影堂修復の機会に完全な修復、不必要なものは片づけ、本願寺の創建当時の荘厳に戻すことが大切となる。また、このことは世界文化遺産という文化財価値の面からみても、皇室が日本仏教のオーナーであるという印象を拭う一助となるであろう。( 『同朋の広場』誌に掲載されたもので、菅原龍憲さんへお世話をかけた。)