「下剋上」 -日本中世戦国期学習の常識①

下剋上」 -日本中世戦国期学習の常識①-1

現在の日本史の教科書で使用される「歴史用語」を点検してみると、意外、というよりは面白い由緒を持つ語句が多数存在することに気が付きます。
 例えば、誰でも知っている「下剋上(げこくじょう)」は、隋の蕭吉の『五行大義』が上げられ、そのことを記述した教科書もあるくらいです。『五行大義』は、五行相剋を「火剋金,金剋木,木剋土,土剋水,水剋火」と説明し、人間社会が作り出す現象を「上下間」の相剋として論じています。その中で、人間上下の相剋が「上剋下”(上下に剋つ)」は順で道理に従っているが、「下剋上」(下上に剋つ)は、「剥」であり、易の卦の名の名前で凶相を意味するのでよくないといっているわけです。つまり、「下上に剋つ」は、易の凶相でもあり、道理に従ったものとはいえないというのです。
  ただし、『五行大義』の段階では、蕭吉はこの語を「熟語・成語」として用いたわけではありません。いかにも「下上に剋つ」というのでは、一般的に考えても可笑しく、その根拠の一つとして易でも「凶相」だとしているわけです。ここでの「下剋上」の意味は、五行の相剋の中で「下剋上」のみが、例外であるというわけです。つまり「下剋上」は、日本中世において歴史現象を説明した「語句」ではなかったわけです。
  さて、中世日本においては、よく知れられているように、「下剋上」は「下が上にくつがえり」、つまり、将軍・大名の家臣が、主君を謀殺・追放したりして治世を強奪したり、同一の親族結合の領主権力内でも子が親を追放・殺害することが日常化していたしていた社会で使われ、中世から戦国期の日本列島社会の世相を反映した、天下国家の無秩序ぶりを「下剋上」と表現した語句であると思われます。
  実際に、『太平記』巻27「雲景未来記事」は、「王道」は、平家の末に尽き,後醍醐天皇にいたって公家までもすたれ,末世濁乱の“下剋上”の世になったため政道もなく世上も静まりがたい」と結んでいます。同書巻36「畠山道誓事」には、関東公方足利基氏が武士たちの圧力に屈して道誓の執権をやめさせたことを、「下として上を退る嗷訴,下剋上の至かな」と怒ったとあります。『太平記』が描く南北朝内乱期、あるいは、『太平記』を生んだ室町期の人びとは、日本の政治・権力秩序の維持が「道理」から逸脱していて、「下剋上の世」になったものと意識していことを意味していると思われます。
  日本史の用語には、「下剋上」のように、中国古典を出拠としつつ、現実に引き起こる事象に当て嵌めを行った事例が数多くあります。「戦国大名」という歴史用語も、これに当たるでしょう。ただし、「戦国大名」という語句は、歴史学研究者が作り上げた用語だと思われますが、背景には「下剋上」の結果に生じた封建領主層の結集体であるという予測のもとに創られた造語であるということも忘れてはなりません。この点については、後考とします。(続く)