「一向一揆」という用語は、誰が始めて使用したか?

一向一揆」という用語は、誰が始めて使用したか?

 金龍静氏の『一向一揆論』(2004年 吉川弘文館 P24)によると、一向一揆という用語は新井白石が最初に使用したらしいとする。
  金龍氏は、『紳書』巻3を典拠にあげている。実際に『紳論』巻3に目を通してみると「一向家一揆」という語句はあったが「一向一揆」という語句は見当たらなかった。金龍氏があげた『紳書』のテキストは、『三河文献集成』(近世編下、P1162)となっていて、私が見たのは市島謙吉校訂・編集の『紳書』(P657)であるから、単にテキストの問題であるとも思われるが、どうも、「一向一揆」の名付親は新井白石だと言い切るには、少し無理があるように思われる。
  近代史学史で使用したのは、東京帝国大学文科大学教授の星野恒「徳川家康三河一向一揆の処分」で、1890年の論文あると思われる。金龍氏は『史学雑誌』1編3号とするが、『史学会雑誌』明治23年第九号である。
  『史学会雑誌』に拘る理由は、久米邦武の筆禍(神道は祭天の古俗)事件により、史学会雑誌が休刊となり、史学雑誌となり再刊される以前の論文であるということが大切であると考えるからである。つまり、久米事件に続き、南北朝正閨論により喜田貞吉(喜田事件)、津田左右吉事件と、近代史学史において、歴史学への「国家統制」、「皇国史観」の強要、といった「天皇制史学」とでもよぶべき歴史観への傾斜が顕著なる以前の論文であるということになる。しかも、星野恒が使用したということは重要で、「山城国一揆」などは、「一揆」という用語を使うことが憚られた時期が戦前に存在していたが指摘されたいる。(鈴木良一)こと「一向一揆」に限っていえば、近代史学史の中で継続的に使用された。
  確かに、君民一体を強調する「天皇制史学」の基調において、民衆の体制への抵抗・国家とは異なった秩序形成を描く「一向一揆」論が、ある意味において不思議な現象であるとも思われる。この問題は、もう少し深く議論してみたい。(未完)