法然の「性差別文言」の評価について①

 1990年代、仏教史学会、研究会・日本の女性と仏教に参加した中世仏教史家たちから、次に法然無量寿経釈」の解釈についての論争がありました。まず、関連する史料から引用します。

 「A 次別約女人発願云。設我得仏。其有女人、聞我名字、歓喜信楽菩提心、於女身、寿終之後復為女像者、不取正覚矣。付此有疑、上念仏往生願不嫌男女来迎引接亘男女、繋念定願又然也。今別有此願、其心云何。倩案此事女人障重明不約女人者、即生疑心。其由者、女人過多障深、一切処被嫌。道宣引経云。十方世界有女人処即有地獄加之内有五障、外三従。五障者、一者不得。云云二者帝尺、三者魔王、四者転輪王、五者仏身。」

 「①天親菩薩往生論中、云女人及根欠、二乗種不生、同根欠敗種、遠絶往生之望。云云諸仏浄土不可思寄」

 「② 日本国サシモ貴無止霊地霊験砌皆悉被嫌。云云。先比叡山伝教大師建立、桓武天皇之御願也。大師自結界堺谷局峰不入女人形。一乗峰高立五障之雲無聳、一味之谷深三従之水無流。薬師医王霊像聞耳不視眼、大師結界霊地、遠見近不臨。高野山弘法大師結界峰、真言上乗繁昌之地。三密之月輪雖普照、不照女人非器之闇、五瓶之智水雖等流、不灑女身垢穢之質。於此等所尚有其障」

 「B 何況於出過三界道之浄土之哉。加之、又聖武天王御願、十六丈金銅舎那前、遥雖拝見之、尚不入扉内。天智天王之建立、五丈石像弥勒前、高仰雖礼拝之、尚壇上有障、乃至金峰雲上、醍醐霞中、女人不影。悲哉、雖備両足有不登法峰、有不沓仏庭、恥哉、雖両眼明有不見霊地、有不拝霊像。」

 「C此穢土瓦礫荊棘之山、泥木素像仏、有障、何況衆宝合成之浄土、万徳究竟之仏乎。」

 「D 因茲往生可有其疑故、鑑此理別有此願。」

 「③ 善導釈此願云。乃由弥陀大願力故、女人称仏名号、正命終時、即転女身得成男子。弥陀接手菩薩扶身、坐宝華上(宝花上)、随仏往生、入仏大会証悟無生。一切女人、若不因弥陀名願力者、千劫万劫恒河沙等劫、終不可得転女身。或有道俗云、女人不得生浄土者、此是妄説不可信也。云云是則抜女人苦、与女人楽慈悲御意誓願利生也。」
ここに示した文言の解釈・評価をめぐる議論があり、私などは、ただ茫然と議論を眺めていました。ただ、問題が「仏教の性差別」の根本にかかわる問題なので、自己の位置関係だけは示しておこうと思い、「研究ノート」を作成したのですが、なぜか気後れして発表の機会を逸してしまい、今日まで来てしまいました。以下では、その時に作成したノートを、現在でも議論しなければならないと思う範囲でブログという形で公開します。(続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   
「地域文化論」ことはじめ1

 久留米高専で「地域文化論」という半期(5年生=大学2年に相当 選択科目)の講義を担当して6年がたちました。途中で非常勤講師に委嘱した年度もあったのですが、今年は自分でやってみようと決心して講義をはじめました。できは良くないのですが、自分にとっては楽しい準備と講義が続いています。あまり巧くない話に付き合わされる学生には迷惑なことでしょうが。
  今年は、日本人が「盂蘭盆会」にどのように引き込まれ、いつのまにか、社会全体が仕事を休んでまで「先祖供養」に、のめり込んでいくのかを、筑後地域を考察の場に選んで話していこうと考えています。
  この前提として、「血盆経」信仰や霊場(社寺)参詣を、戦国期から近世にかけて作成された寺社への参詣縁起絵(『社寺参詣曼荼羅』)を素材にして講義しています。配布した絵画資料のコピーに、マレーシアからの留学生の困惑した顔に、こちらも困惑しながら、絵を読み解きながら「地獄」やら「極楽」やらの話をしています。
  この講義の準備の過程で気が付いた、というよりは、すでに先学により指摘・分析されて、周知のことなのですが、真宗親鸞善光寺の深い関係には目を見張るものがありました。
  平松令三先生は、明快に親鸞善光寺聖だと指摘し、私もそのように考えてきました。(『仏教とジェンダー』ー真宗における坊守の成立と役割ー 2000年 明石書店
 考えてみれば、「血盆経」信仰を語るときにはずせない立山は、真宗王国といわれる冨山にあることを忘れてはならないわけで、加賀の白山も含めて、中世の「山の浄土」と切っても切れない関係にあることを忘れてはならないと反省しました。
これまでの、真宗史は、「盆」行事を代表とする先祖供養を、あたかも寄生虫の駆除の対象、あるいは水田に生える雑草のように考えてきました。ところが、近年の私の感想といえば、真宗という宗旨を支える基層には、「盆」に代表される「先祖供養」といった信仰に下支えされて、いわば「上澄み」のようなことをしただけではないかという見方する持つようになりました。
  「地域文化論」が、高専の存在する久留米・筑後地区に前期の講義期間(15週)で辿り着くか怪しい状況です。いま少し、前提となる部分をつめてみたいおもっています。できれば、一つでも成果が論文化できたらと思ってもいます。(未完)

 

 

 

 

 

 

                        
一向一揆」という用語は、誰が始めて使用したか?5

 金龍静氏の『一向一揆論』(2004年 吉川弘文館 P24)によると、一向一揆という用語は新井白石が最初に使用したらしいとする。
  金龍氏は、『紳書』巻3を典拠にあげている。実際に『紳論』巻3に目を通してみると「一向家一揆」という語句はあったが「一向一揆」という語句は見当たらなかった。金龍氏があげた『紳書』のテキストは、『三河文献集成』(近世編下、P1162)となっていて、私が見たのは市島謙吉校訂・編集の『紳書』(P657)であるから、単にテキストの問題であるとも思われるが、どうも、「一向一揆」の名付親は新井白石だと言い切るには、少し無理があるように思われる。
  近代史学史で使用したのは、東京帝国大学文科大学教授の星野恒「徳川家康三河一向一揆の処分」で、1890年の論文あると思われる。金龍氏は『史学雑誌』1編3号とするが、『史学会雑誌』明治23年第九号である。
  『史学会雑誌』に拘る理由は、久米邦武の筆禍(神道は祭天の古俗)事件により、史学会雑誌が休刊となり、史学雑誌となり再刊される以前の論文であるということが大切であると考えるからである。つまり、久米事件に続き、南北朝正閨論により喜田貞吉(喜田事件)、津田左右吉事件と、近代史学史において、歴史学への「国家統制」、「皇国史観」の強要、といった「天皇制史学」とでもよぶべき歴史観への傾斜が顕著なる以前の論文であるということになる。しかも、星野恒が使用したということは重要で、「山城国一揆」などは、「一揆」という用語を使うことが憚られた時期が戦前に存在していたが指摘されたいる。(鈴木良一)こと「一向一揆」に限っていえば、近代史学史の中で継続的に使用された。
  確かに、君民一体を強調する「天皇制史学」の基調において、民衆の体制への抵抗・国家とは異なった秩序形成を描く「一向一揆」論が、ある意味において不思議な現象であるとも思われる。この問題は、もう少し深く議論してみたい。(未完)