開設への所感 遠藤 一のブログのはじまり

 本日開設、寺院住職、日本史・仏教史研究者(元 久留米工業高等専門学校 准教授)として、日頃に感じたことを記していきます。二〇一一年三月、娘の大学卒業と、息子の大学三年生進級をむかえ、二足の草鞋は、どちらともよくないということから、長徳寺住職へ専念することを決意しました。

 「辛いCM」の視聴。

 さっそくのボヤキです。夕方、雨上がりに横臥しながらニュースをみていました。ニューースの内容よりも、ある葬儀社のCMメッセージに愕然、「アリエヘン」こんな事(葬儀と坊さん)。「スソをはだけ、雪駄でバイク乗るんか?ミットモナイ」ではありません。

 バイクに衣装ケースを載せた僧侶が橋の上で、ヘルメットを被ったまま、葬儀の感想をポツリと。「エー、葬式やったな!」だって。そして「葬儀社」の名前がBGMとともに!!

とっさに、

 「葬式に、善いも悪いもあるか…」と、これは住職になりたての頃の粋がった義憤。では、いったい善い葬儀とは、悪い葬儀とは?聞きたくなる。

 

当節は、「誰が、バイク(原付)で葬儀に行くもんか。しかも、重い葬儀用の法衣は原チャリに乗せられるんか!!」つまり、葬儀の完成度・充実度・成功度を寺院・僧侶の側からいうことは、私の「感覚・感受性・感性」からいって、口が裂けても言ってならない御法度であるように考えている。僧侶は、人生の最後に立ち会うことができる「従軍牧師・僧侶」の存在である。あまりに葬儀を「日常の業務(ルーチン・ワーク)」と考えると、門徒さんに寄り添ってなどという「きれい事」はでてこないように考えた忍従・温和に対応し、相手が困っているっていることは不変であるから。困っていいることの事情は千差万別であるから。

 以前から放映されていたCM映像である。ふと考え込んでしまった。浄土真宗を名告る、つまり、親鸞聖人の遺弟であることを。どのように表現する、つまり、御同朋の実践にかかわる大切な意識化すべきことと思惟しました。

( 2017年10月23日 月曜日 補綴)