「女性と仏教」の方法と視角について  ―吉田一彦氏の書評への所感―(その2)

2「巣ごもり」した事情

 1997年に刊行を終了した『講座・蓮如』(平凡社)が、私が同学の人々と研究上の交渉を持った最後であった。また、この時期には世にいう学会はほとんど退会し、また、学会・研究会・セミナーといいたアカデミックな場には2000年頃より本格的に出入りした記憶はない。従って、同じ研究課題を持つ研究者でも10年下の世代は顔も知らないし、このことに不自由は感じていない。必要に応じて研究史と研究成果はフォローしているつもりであるが。いわば、福岡・久留米に「巣ごもり」し、自らの関心に従い学習してきたからであり、それにはそれなりの理由があった。
 1984年、「研究会・日本の女性と仏教」のことで、私は圧倒的に影響を受けた研究者から、女性と仏教が、教団絡みの問題、つまり実践絡みになていくことへ釘をさされ、いかに実践絡みの学問が研究水準の貧困をもたらすのかということを告げられた。従って、私は、龍谷大学という宗門校に所属しながら、宗門校では定版である教団史・宗派史・教学史を拒絶しながら「女性と仏教」の研究史に関わりだした。事後、25年が経とうとしている。1992年に真宗大谷派坊守から真宗史においての「坊守論」の確立という課題を提示され、以後、2000年には『仏教とジェンダー』を山陽教区坊守会の要請で刊行したが、出版までの過程で東西本願寺教団の「坊守」をめぐる議論は、大谷派では、1980年代後半では女性住職の認知問題、1990年代「坊守」の役職・地位の明確化、2000年頃には「坊守」の宗政への参政権の問題が焦点となり、それなりに問題の解決・決着を見てきた。本願寺派では、2000年以降に「坊守」を男性へ開放し同居する親族(寺族)に拡大する宗門法規の改正を行った。拙著の諸論文が坊守から研究成果の報告と提言を求められた背景である。
評者が坊守は「住職夫人であって、夫ととみ宗教活動行うような存在ではなかた」、あるいは「結婚する仏教にジェンダーイコールを求めているが、男女共同参画とはいえない」ということを明言するが、もともと、仏教の現実問題から出発した拙著に対して、「結婚する仏教・家族で維持する教団・寺院」という問題設定を行う際に、僧尼の結婚・家族連れがどのようなジェンダーを生みだすのかについて、現代仏教・真宗を生きる坊守からの問いかけに対する回答としては、どうしても承認することはできない。つまり、この20年間の本願寺教団で惹起した「坊守論」は、住職夫人となることを機縁としてともに寺院を経営し門徒の教化にあたるのが「坊守」であり、結婚・家族を持つ住職・坊守におけるジェンダーフリー男女共同参画とはいかにあるべきか、ということが成立し、それへの取り組みが真摯に行われたこと自体が、評者の僻見であることを示している。
私が「坊守論」を課題にするに当たり一番に躊躇し気を付けたいと考えたのは、自身が研究課題とした坊守からの依頼ではあっても、真宗教団の宗門の運営・政治に直接に関わる問題に発言するわけであるから、そのことを覚悟の上で、与えられた課題への希望的意識から「未完の理論と低い実証」という結果的に歴史学を手法とするだけの非歴史的論議に帰結してはならないということである。
そして、20年前に九州・福岡に移り住み、中央の研究動向を斜に見ながら、私にとって驚きであったのは、実践絡みの学問が研究水準の貧困と説いた先学たちが、本山・教団が主催する研修会の講師に招かれ、自説を歴史学が素人の教団人に学会の研究水準と成果を「分かりやすく」お話していることを目の当たりにしたことであった。つまり、これは東西本願寺のみではなく、凡そ本山・教団という組織が研修会を行うということは、何かの教団的課題を抱えてのことであり、そこで講義をし「講義録」としてまとめられることは、なんらかの教団事情による本山・教団の方針に学問的根拠と権威を付与する役割を負わされていることはいうまでもあるまい。従って、驚きの本質は、そのことへ招請されるの先学たちの無頓着・無警戒ぶりであり、本山・教団に都合のよいと思われる学者(講師)として招かれ、結果として本山・教団の方針に権威・根拠を付与していることへの無自覚・無恥振りである。
宗門に関与しない研究者であるのなら罪がないのではない、そのことが本山・教団という組織から便利に利用されてきた事実である。拙著のなかで、言わずもがななことを書いてしまったが、「先生(私)の意見は学会では少数派ですよね」という、あまりに当然といえば当然の念押しまでされ、あたかも日本仏教史・真宗史研究者のなかの「珍獣」扱いまでされた。吉田氏は、

さかんに議論された「女性と仏教」は、「おおもとのところでは問題設定を共有できなかった」し、「研究が全体に大きく前進したわけではない」。遠藤の問題設定には問題があり、「解答に至る道のりにいくつもの分岐路があるというである。遠藤氏が辿り着いた解答とは別の解答もありうる。(P35)

と、述べている。当然の御指摘であるが、この場合でも、拙著が動く真宗史のなかで、東西本願寺教団の坊守問題から与えられた研究課題という、極めて現実的な課題から論を立てつつ論証につとめたわけである。従って、評者の拙著への批判は、くどい位に本書成立の背景と風景を述べ、いわゆるアカデミズムの研究論文集との課題設定の温度差を計測したつもりであった。ゆえに、私は評者が真宗坊守がすすめる、ジェンダーフリー男女共同参画を「坊守」の役割を明確化し制度的に拡充し、宗政への公民権を獲得しつつ教団改革を実現しようとする運動への否定的言辞と受け取らざる得ない。また、何人かの真宗史における「女性と仏教」の立場からの発言も、真宗教団の本山側の立場からの、現在進行形で展開する坊守運動への否定的発言ではないかと懐疑的になる。従って、吉田氏に限らず、このような坊守をめぐる先学たちの否定的言辞と冷ややかな視線のなか、私の「巣ごもり」がはじまったし、今後も巣を出る勇気は持てないでいる。無論、わたくしの研究姿勢に問題があるが大前提であるが。

3 親鸞論・真宗史論の信頼性と安定性

 拙著の「坊守」理解を支える基本史料は、「親鸞夢記云」(「女犯偈」)を中心とする親鸞史料、「親鸞聖人御因縁」(坊守縁起)、「名帳・絵系図」を中心とした荒木門徒仏光寺関係史料、恵信尼史料・覚信尼史料である。これらの史料は、真宗史の碩学である宮崎圓遵・平松令三氏らの業績により紹介されたり、あるいは読み解かれた史料群である。そして、吉田氏は、拙著の宮崎「親鸞真宗史論」、平松「親鸞真宗史論」に対する位置関係を厳しく批判する。

 本書はこうした方面(史料批判―遠藤)宮崎圓遵氏、平松令三氏といった大家の見解を前提とし、それを継承するばかりで評者にははなはだ物足りなく感じられる。

 なるほど、その通りであり拙著の随所で基本史料への基礎的分析は宮崎・平松氏の「親鸞論・真宗史論」を前提に論をすすめている。この点についても評者と私の真宗史像に対する決定的温度差を感じる。大家たちの弟子筋であるという、自身の真宗史研究の立ち上がりの信頼性と安定性という観点から、拙い私見への根底を確認しておく。

 A 龍谷大学親鸞論・真宗史」の信頼性と安定性

 宮崎圓遵は、1927年龍谷大学大学(文学部史学科国史学専攻)を卒業し、爾来、1983年に死去するまで、半世紀以上にわたり本願寺史・真宗史・日本仏教史の研究にその生涯を捧げたした。私も宮崎の最晩年に講義を聞いた龍谷大学の卒業生の一人であり、確かに「大家の見解」を「継承するばかり」か、ろくに確かめもせず教師に教えられたことを鵜呑みにして結論のみを拡声し自説と称したのかもしれない。
また、京都大学出身で還暦を過ぎてから龍谷大学に籍を置かれた平松令三は、大学院(博士後期課程)で演習に加えていただいたし、久留米高専に着任後もご指導をいただいた恩師のお一人である。門人の一人であるように考え、現在でも、この「史料」は平松先生ならどのううに解釈するのか、と思いを巡らす恩師のお一人である。余計なことをいえば、私は龍谷大学で、宮崎圓遵の最後の講筵に侍り、福間光超卒業論文、二葉憲香に修士論文、博士課程では千葉乗隆・平松令三の指導を受けた。真宗史研究者にとって、こんな幸福な学徒はいるであろうか。恩師の衣鉢を継ぐことを誇りに思い研究してきたわけであり、それを「つまらない」といわれれば、「吉田さんには、衣鉢を継ぐべき恩師はいない」と気の毒に思っただけである。それだけに、現在の私の初期真宗研究の質が問われることには異論はない。
 つまり、評者が主張するように「大家の見解を前提とし、それを継承」することの問題があるとすれば、私が学習した真宗史・本願寺史に関わる宮崎の仕事が、学問的に余程に問題ありということになるが、本当にそうだろうか。そして、吉田氏が考える、あるべき中世・戦国期の真宗史研究の手法や解明すべき歴史像としての真宗とは何であるのか、少しく考えてみた。
 蓮如の五〇〇回会の頃から吉田氏は、本願寺順如・蓮如の「方便法身尊像」に注目し、従来の真宗史における蓮如・順如の評価を再検討し、新たな事実を報告されている。そして、重要なことはそのデータを持って日本仏教史上における「蓮如像」の転換を呼びかけている。たしかに、こうした吉田氏の挑戦からすれば、私の真宗史はご批判の通りであるように思う。ちなみに、私には吉田氏の真宗史研究は「従来の成果」の訂正を持って、自身見解を展開する「一点突破主義」の安価で杜撰な研究手法と苦笑している。
 いいわけではないが、吉田氏に指摘されるまでもなく真宗史の歴史像の再検討については挑戦してきたつもりであり、それなりの実績もあげた。
 確かに、初期真宗の事案に関わる「坊守論」についての、取り組んだ際の私の研究蓄積が不足し、信頼し恩師と仰ぐ平松、龍谷大学真宗学門の学祖ともいえる宮崎の研究を「丸呑み」したといえばその通りである。「丸呑み」しなければ、私の「坊守」論は試論にもならないように思える。ただし、その後において、「承元の法難」をはじめと親鸞研究を再検討する作業に取り組み、自身の議論の再実証、つまりは、真宗史像の再構築に取り組んでいる最中である。
※ 作業仮説の研究史的検討として、二葉憲香の「親鸞論」を点検したことがある。これは、吉田氏の指摘をまつまでもなく、自らが立つ真宗史の歴史像の基礎を点検するためであった。信頼性と安定性を担保した後に親鸞研究を足がかりにして真宗史像を再検討づる決意であった。(「戦後親鸞論の軌跡(1~3)―二葉憲香「仏教史学・親鸞論を読むー」(久留米工業高等専門学校紀要第二四巻一号から二五巻一号 2008年から2009年)

B 本願寺史の起点としての恵信尼覚信尼歴史的評価

 「坊守」論を提起するにあたり、私は3点にわたり不安の決定的な研究史に対する不信感を持っていた。そのことについて、吉田氏は見事に見抜き厳しく指摘している。正直に言えば、次の三つの論点については、少なくともご指摘・批判を放置することはできないと考え、少しく議論しておきたい。

 ⑴ 真宗史における「坊守」使用の普遍化

 「坊守」は、普通に考えれば、親鸞門弟の中では、東国の荒木門徒とその後裔に類する仏光寺教団で中世戦国期に限定的な集団内で使用された「語句」であると考えなければならないと思慮している。また、その後の調査等によっても、少なくとも戦国期仏光寺教団では「道場坊主・寺院住持」の妻であり、門徒集団では道場坊主と対の女性宗教者であることを示唆する使用例が確認できた。(平田明照寺「門徒名帳」)確かに中世戦国期真宗の世界で「坊守」は、東国荒木門徒仏光寺門徒で限定的使用されたと思慮するのが一般的解釈であるといえる。ただし、私はあえて「坊守」を女性専門的宗教者(坊主と坊守)の固有名詞と判断し、あえて、「坊守」という語句の検出が無い本願寺教団へ「当て嵌め」て普遍化させた。
 その問題意識・意図は、実態としての<僧の妻の宗教的役割>は確認できると考えた方であり、「坊守」と呼び慣わすか「××寺**向」と呼ぶか、「○○坊主衆内方」は、当該の女性が所属した教団の慣行であり、近世社会で「僧の妻」・「僧の妻帯」が問題になった際に、つまり、儒者・非真宗系仏教からの「肉食妻帯批判」に直面したり、真宗寺院の「僧の妻」を、各地公権力(幕藩)に対して「寺院所属構成員」を届け出る場合に「同宿・女房・女」では、切り抜けることができないと判断からと推定した。無論、近世真宗への分析が不足している中で、いくつかの事例をもって行った「蛮勇奮って」の推測であった。つまり、「坊守」という女性の専門的宗教者であるから、寺院にそんざいすることが当然であるという理解・主張であると考えたわけである。つまり、近世教団が幕藩体制・公権力に対する「肉食妻帯」の肯定論として真宗教団各派に定着したという推論である。

⑵ 本願寺史起点が覚信尼教団とする実証作業

 吉田氏は、私が初期本願寺史=関東諸門流と覚信尼・覚恵・覚如への史料批判を踏まえた分析が必要であることを強調する。ことに、覚信尼が再婚し小野宮禅念との間に生じた唯善との間に生じた大谷廟堂留守職(初期本願寺文書)の係争に関わる史料群への史料批判が重要であると述べる。初期本願寺文書の史料批判を通じての、いわゆる「唯善」事件の検証・復元研究が必要であると力説する。
 そして、大谷廟堂にかかわる「初期本願寺文書」は、「正文」は伝わらず、おおよそ「案文」を中心に何らかの意図で「大谷廟堂」の由緒文書として編纂し護持されることになった。いわば、本願寺という寺院の歴史的性格を表す「由緒文書」であり、本願寺という寺院が「大谷廟堂」を起源とすることを主張する根拠であった。また、本願寺教団の宗主が、教団を率いる首領であることの根拠も「大谷廟堂」の「留守職」に関する文書群も信憑性を疑ってもよいというから読み込むべきと前置きする。
 初期本願寺由緒文書である「大谷廟堂」への史料批判、というよりは、「一点一点の真偽を厳格に検証し、もし偽であるのならば、いつ誰によって何の目的で作成された」のかと明らかにしてから論ぜよと大鉈振るいで、吉田氏は私の所見への疑問をぶつける ついには、「<留守職>なる職は他にあまり見かけなず、この(唯善との係争)争いの中で創作された職である」と断じている。あまりに性急で、独断的な見込みの論議であると苦笑したが、吉田氏は遠慮も容赦なく「(大家の議論)継承するばかりで評者にははなはだ物足りなく感じる」と、畳み掛けられた。まさに、勘弁していていただきたい決めつけの論理であり、そう簡単に、真宗史の信頼性・安定性が覆るものもない、真宗史の素人の世迷言と黙殺することにした。
 私にしてみれば、宮崎・平松だけではなく、戦中から戦後に活躍した碩学である赤松俊秀、笠原一男、井上鋭夫といったの初期真宗史研究は、学生の自分から真宗史の基礎学習として読み漁った。それだけではなく、これらの碩学が残した学問的遺産は、その意図は訪ねようも無いが基本史料を後学の至便なるように整理・公刊したことが、なによりも評価されるべきである。
 1984年度の日本史研究会大会で「寺院と民衆」という共同研究報告があり、新行紀一・細川涼一・吉井敏幸氏らが報告者であった。(『日本史研究№266』)私は、この共同研究報告に先立つ準備会の「3月例会」で、「新行紀一氏の一向一揆論」という報告を行った。ねらいは、当時の一向一揆論の研究水準にあると考えられていた新行氏の研究を、「権門体制論」・「顕密体制論」・「異端派宗教の戦国期での展開」といった視点から検討し、「寺院史」のなかでの「一向一揆論」という課題に取り組む前提に取り組むためでもあった。「寺院と民衆」という共同研究の課題設定に対して私は、およそ、その意思に反するというよりは、結果的に無視した報告を行った。その主旨は四点である。
 第一に「門跡・院家制」(「門跡也」)をもって戦国期本願寺教団の成熟とすれば、簡単に「異端派宗教」として位置づける根拠はいずこにあるのか。そもそも、一向一揆は、黒田氏のいう「異端派宗教・異端改革運動」の系譜に位置づけてよいものか、という疑問である。
 第二には、本願寺一向一揆・教団組織を収斂しつつ一揆暴力装置化し戦国期大名権力との合戦を繰り返した。見方を変えれば領主間戦争であり「戦国期宗教権力」という見方がじゅうようになるのではないか。(「本願寺法王国」)そして、重要な点は、「本が寺・一向一揆」が、戦国期列島日本社会の領主間配置に「戦国期大名」
 第三に、「大阪並体制」・「寺内町」を「農」(民衆)の結集で「仏法領」の実現した形態であるという位置づけ。そして、一向一揆と激しく対決した「織田権力」は、兵(武士)の結集であり、石山合戦を通して兵農分離社会が成立し、一向一揆は日本封建制社会に「別途」の封建制を成立させる可能性を持った。まず「寺内町」は、そのそも民衆の解放空間ではなく、寺院という領主の支配する空間いすぎないのではないか。また、蓮如の「仏法領」説は、黒田氏が主張する「一向一揆の政治理念」として読み込むことができるのかという疑義である。
 第四には、新行氏に限らず「一向一揆」論の多くがいわゆる宗派史研究の史料を基礎としているということである。黒田「顕密仏教論」が力説する鎌倉新仏教と呼ばれる現代における日本仏教の中核宗派(仏教教団)の形成を中心にみる歴史観からの脱却という課題からすれば、むしろ宗派史研究に依存する日本史研究分野であるといえる。そして、宗派に属する研究機関による史料調査・分析の蓄積に支えられている研究現状をどのようにかんがえるか、である。
 私の例会報告について、当時の日本史研究会の中世史部会・研究委員がどのように聴いたかは不明であるが、黒田氏自身が大会報告の「討論」の席上で、例え話まじりに「富士の裾野が見えるだけで、一向に頂や頂上が見えない」と批判めいた発言を最後にしたことが強烈であった。準備段階で、鎌倉新仏教論・宗派史研究を批判しておきながら「一向一揆論」の成果のみを、「権門体制論」・「顕密体制論」・「異端派宗教の戦国期での展開」に組み込もうというセンスの悪さを、私は少し離れたスタンスで聴いた。そして、内心「中世寺院史研究」の大きな欠陥に気付き、3月例会の「新行一向一揆論」批判の正当性を改めて認識した。
 ここで、改めて吉田氏が私に対して指摘して下った点で、次の2点に「言い訳」について本節で根拠を述べたつもりである。① 宗派史研究の、特に主流となる宮崎・平松らの議論に無批判であったことはには相違はないが、現時点でも、大きな疑問点をもってろんずるほどの瑕疵はないように思える。つまり、安定的であり、私の議論もその延長線上にあることは当然であった。② そして、なによりも主張しなければならないのは、真宗史研究者はほぼ共通のデータベースを使用しているわけであるから、そこを超越した研究を求められた場合、相当の時間と人力を必要とする。私も、この点については、自覚している点であり、限定的ではあるが見直し作業をすすめているつもりである。

 

 

「女性と仏教」の方法と視角について ―吉田一彦氏の書評への所感―

序 ことの始まり

 かつて「研究会・女性と仏教」の京都事務局スタッフとして、会への参加の呼びかけを行なったとき、お声掛けをした先輩方から、「女性史の問題は仏教史・真宗史はなじめない。仏教史・真宗史の問題にならいないのでは?」という率直な感想をいただいた。すでに笠原一男・源淳子氏などの先駆的研究は存在したものの、総じて当時の仏教史・真宗史における「女性と仏教」の問題は未開拓な分野であったように思う。そのあたりの事情は、1986年の本誌に研究通信で論じたことがあるが、それから20年以上が経過し、いまや「女性と仏教」に関する研究蓄積は、由緒ある歴史学や宗教学・仏教学研究の学術誌での議論の俎上に載せられている。これは私にとってじつに感慨深いことであり、『中世日本の仏教とジェンダー -真宗教団・肉食夫帯の坊守史論―』(明石書店 2007年)も、そうした「女性と仏教」という新しい研究課題の息吹のなかでの上梓であった。
拙著は、これまで真宗史という宗派史・宗門史のなかで教団(組織者)・男性僧侶(教化者)から寄進者(被組織者)・信者(被教化者)という扱いのなかで論じられていた女性信者像・組織の変遷の問題を、教団・寺院組織のなかに内在化させられ真宗女性が持っていた属性・役割を掘り起こし、男性原理で伝来してきた真宗史料を読み換えの試論であった。これまでの教団史・教学史・宗派史・宗門史、仏教=真宗教団・教学において周縁の存在であった「女性」が、男性原理で編纂・伝来した史料群のなかで、どのように真宗への信心を社会・教団・門徒団・寺院・道場・家族と自己を切り結び、中世日本仏教にどのような属性・役割・特色をもたらしたのを問うたつもりであった。
本書は、序論を除いて2部に構成されている。第1部は、親鸞とその家族を軸として、初期真宗教団の形成を、親鸞の遺族が経営主体となった本願寺門流の結集原理に関する論議であった。特に、本願寺の結集軸となった「大谷一流」という中世的な親族集団形成の必然を親鸞の教学的主張・宗教活動から読み解く作業から開始した。第2部は、親鸞を宗祖とする宗教集団、本願寺も含めた初期真宗諸派の教団形成におけるジェンダーの役割、なかでも師主となった「坊守」の活躍を描き、次に本願寺教団における「坊守」の教団・寺院への内在化を戦国期真宗で分析している。
各部、各章は異なった集団・時期において生じた、女性と仏教にまつわると考えられる事象について論じているが、全体としてはそれらが相互に連関しつつ、現在に至る真宗教団・教学・信仰の容貌に影響を与えているところまで俯瞰した内容である。こうした構成となった理由は、女性と仏教という視覚から、真宗史の特に真宗教団形成を中世列島社会に生じた現象であることを意識しつつ、大きな意味での日本仏教史の流れに位置付けるために、僧尼が家族連れであることと、そのことが教団形成にどのような属性を与え、あるいは僧尼が家族連れで教団・寺院を経営し門徒団の師主となる個別事例について分析しながらも、坊守という職業的宗教者の成立・役割・変遷を真宗史という坊主(男性住職)を中心に描かれた枠を超えて、坊主と坊守という男女間のジェンダーによる相互機能を歴史的文脈のなかで動態として論じて行く必要があったからである。この課題に対する深刻な問題の一つは前近代における坊守関連史料の圧倒的な希薄さであるが、拙著ではそれを克服するために批判的前提として真宗史研究の優れた先行研究の成果も採り入れることにより補完・依存しようとした。
このように拙著は標準的とは言えない女性と仏教の歴史について叙述した歴史書であるにも関わらず、予想以上にある程度の研究者から暖かい励ましを受けたり、ご意見を頂いていることは光栄の至りである。そしてこのたび、伝統ある『仏教史学研究』(2008年、51巻1号)においても拙著の書評を掲載していただいた。まずは誌上で拙著を紹介するように取り計らってくださった仏教史学会事務局の皆様と評者の吉田一彦氏にお礼を申しあげたい。
しかし、この吉田氏による書評が、拙著の主旨や意義を読者に伝えるという態度で著されなかったこと残念でならない。評者は拙著における概念規定・史料解釈・議論の前提など多項目について否定的議論を述べているが、その根拠となる論議が明示されず判然としなかったり、あるいはその説明が恣意的と思慮され妥当性を欠いている。また、評者は否定的議論に対する説得的な対案は示していない。拙著は新たな分野の開拓を試みたものであるから、私としても批判は大いに意義深いものと考えている。とはいえ、議論の根拠となる研究上の根拠が明確に示されないままの批判は、批判といえないだろう。史料批判や考察不足を指摘する場合でも、評者の批判的論議を加味し拙著の論旨が完成せず、あるいは論旨を修正・撤回しなければならない理論的・実証的・史料的根拠が判然としていないように思える。また、拙著が重要視しているはずの論旨もきちんと紹介されているとは言い難いものがある。
かてて、評者がいかなる(私とは異質の)真宗史像を持っているかについても明示されておらず、評者がどのような学問的立場(歴史観)から拙著を批判しようとしているのか不明である。私はこの書評と真剣に向かい合おうと努力したが、拙著の論旨を変更するほどの内容は含まれていないことを確認した。この確認作業の外に、この書評が全体として何を論議しようとしたのか、またその意図や目的が何であったのかまったく理解できなかった。だが、それでもなんとか吉田氏の言わんとするところについて理解すべく、私は拙著に対する「批判」のうち、論議すべき「批判?」として、以下において所感として述べさせていただく。従って、これは反論ではなく、吉田氏が提起してくださった批判を縁とする研究ノートの公表である。

 

(1) 真宗史は動いている

 

 「本願寺においては、過去も現在もいや覚如の時代からずっと、妻は住職夫人であって、夫とともに宗教活動を行うような存在ではなかった。」(P 35)「従って、結婚する仏教にジェンダーイコールを求めているが、男女共同参画とはいえない面がある。」(P39)

 拙著では、第一部第1章で全容を鳥瞰する作業を行ったうえで、ある種の謎解きを第一部の各論に負わせた構成になっている。このような構成になった理由は、拙著の多くの論考が真宗大谷派本願寺派坊守・寺族婦人を対象とした研修会での問題提起・講義をもとに、その記録・講義録として参加者へ、私に課題として依頼を受け与えられ講義の事後報告・成果の中間報告としてまとめたものである。そのために私は、学術的なテーマ設定を取ることを基本姿勢として、現実的な問題から浮上する主論の背景にある「坊守」をめぐる諸問題に関する問題関心を意識しながら、あくまで講義・問題提起の依頼主で読み手である真宗に関わる人々への回答としての役割を重視した記述となった。従って、拙著のいくつかの論考の主題が、執筆期間であった1992年から2004年にかけての東西本願寺教団においてての坊守を中心とした「女性と仏教」をめぐる諸課題を受けての、真宗史・仏教史研究者としての発言の一環であった。
 またこの課題設定については、論文が執筆された際に抱えていた現実的課題を歴史学的に論議し、現在進行形の問題が歴史という時空の変遷によって生成したもので、そのことを踏まえない改革や変革が過去を切り捨て、改革や変革が本質から逸脱していく危険を孕んでいることを警戒・意識したものであった。真宗教団における「坊守」のように、これまでの真宗教団の組織と制度のなかに明確な位置づけがなく、真宗教団の当該の時空のなかで、もっとも機能・役割が変化している地位や立場を、予定調和的観測に基づく非実証的な議論に帰結させることも避けなければならない。このことを踏まえ私は、1992年より真宗教団・寺院の構成員である「坊守」から、自分たちの「坊守」という呼称は「お寺の奥さん、住職夫人の尊称」という見方があるが、それは正しくないのではないか、「坊守」は真宗教団・寺院における役職・地位・機能を示す真宗用語・名詞ではないのか、という問いかけに、このことを真宗史において確認する論議を行ったつもりであった。特に本書に興味を持ち読者として想定される真宗教団の坊守が、拙著が中心に叙述した戦国期真宗を現代真宗の基礎が形成するという真宗史の研究蓄積を踏まえ、あえて安易に近世・近現代までの展望の議論を控え、読者がその後の真宗史の展開でそれぞれの見通し・見解を所持できる形に拘ったつもりである。このような現在進行形で展開している現実的問題から、あるいは当事者からの問いかけを研究課題を設定すること自体がそれほど奇異であるとは思えない。こうしたいわば現実のなかでの歴史学に取り組むことへ、優れた日本仏教史・古代史研究者であるあるはずの評者が、日本仏教・真宗教団・住職・坊守仏教徒真宗門徒への私としての研究成果の中間報告である本書を十分に読み解いて頂けないのは、私には不思議でならない。
 その極め付けが、拙著が結婚する仏教にジェンダーイコール・男女共同参画を求めているが、評者この偏見に満ちた宗教・歴史観が垣間見れ、吉田氏の貧困な思想性が現実に対する歴史学・仏教史学・真宗史が研究者として持つ社会的使命へ鈍感というよりは無神経であるとしかいいようがない。というのは、私は結婚する仏教に男女共同参画ジェンダーイコールを議論したつもりはない。元来は戒律により全面禁止されたはずの結婚をし、家族を持つ僧尼の存在することが、どのような教団・寺院・道場の存在・経営形態をもたらし、そのことをどのように教学的に弁証したのかを論じたのであった。間違っても、先に男女共同参画ジェンダーイコールの前提として結婚する仏教、家族連れの宗教者を描いたのではなく、結婚する仏教、家族連れの宗教者という歴史減少から現代の仏教・真宗の淵原を探ったはずであった。

真宗葬送儀礼の成立から展開 ー「天文日記」の「御剃刀」記事ー

 証如が大坂本願寺における日次を記した「天文日記」を丁寧に読み進めるると、数少ないが大坂寺内住民の仏事に関する記述が見受けられ興味深い。ここでは、すでに大坂御堂での寺内住民だけでなく地方からの武士門徒・商工業者と推定しうる門徒の年回仏事が確認できる。いうまでもなく、「年回」の始まりは「臨終」であるから、その連鎖が大坂御堂で執り行われる仏事に反映して当然である。ここでは、死の床についた、と自覚した大坂寺内門徒の事例を紹介したい。ただし、希少な例であり、慎重な検討を要すると考えている。

 

 

真宗葬送儀礼の成立から展開(1) -「実如上人闍維中陰録」を読むー

 

 前置き

  蓮如の死の作法については、「蓮如における死の作法」(初出は、1988年、日野昭博士還暦記念会編『歴史と伝承』、『戦国期真宗の歴史像』に収録。1991年)で論議した。今読み直してみると不備で満足を得る論考といい難いので戦国期、「天文日記」・「私心記」を使用した論議を先に公開しておきたい。具体的な論議は、遠藤「臨終・葬送・納骨」・「ある僧の妻における死の意味」(『戦国期真宗の歴史像』第3章)、「戦国期真宗における尼の諸相 -在家尼・後家尼・臨終出家」(初出は、1991年、龍谷大学仏教史研究会『仏教史研究』№28 後に『中世日本の仏教とジェンダー真宗教団・肉時食夫帯の坊守史論― 2007年明石書店)で行っている。

ただし、当時の研究史には、まだ蒲池勢至・石川力山さんらの研究成果が同期的に発表されている時期であった。ために、執筆の段階では参照することができず、発表後に石川さんからは論文抜刷の恵与をいただき、仏教の差別史のなかで葬送儀礼の問題を解いていく必要を痛感させられた。また、蒲池さんからは、民俗学の「手法」を基本とする視点からの真宗葬送儀礼・墓制への議論についての論著を恵与され刺激になった。

 

1 臨終の作法

 本願寺九代宗主実如の「葬送記録」(『実如上人闍維中陰録』 1525年2月2日没)を引用し議論する。(読みやすいように、現代用字と平仮名で引用。

一 二月一日、ちと御験しと申し合わせ候へは、二日の暁七つ時より、御息、差し荒く御入り候て、六つの時分お目を舞わし候間、おのおの肝をつぶし申し候。その時、臨終仏を懸けられ申しそうへは、蓮能より参られ候。代々の臨終仏の写しなり。印金表補絵なり。円如の御時は懸かるる。これは、代々の臨終仏に非ず、印金表補絵なりと御主候き。代々の臨終仏は御土蔵にあるけべき由の御意に候あいだ、すなわち「代々臨終仏」(金鈔表補絵なり)と外題に候を取り出し、上の長柱に懸け申し候。お座敷は端の御亭様の外なり。さて兎角して御心付若子殿、呼び参らせられ物をもよくあそはし候へなどと色々と御申し候。また皆、男は男、女房衆は女房衆ありがたく涙を流し申し候。さて暫しありて、重湯きこしめし候て、程なく御往生に候也なり。辰の剋なり。御年六十八歳「なり。暫しありて、腰障子をは外し、おのおの落涙周章の体を拝し奉るは申す計りもなく候て、余り群集候の間、重ねて御堂にて拝せらるへきとの儀なり。

一 本尊臨終仏、御亭九間の西三間の中に懸け申され候。この間は寝所なり。本尊のお前通りさま障子の菊より、間中計り斗りをきて、横に頭北面東に布団を敷きそのまま置かれ候。八の時分本尊のお前に打置を置き、木目に塗りたる御堂の南の座敷にある打ち置なり、三具足を置かる。(鍮石の亀鶴なり)花は樒、赤蝋燭を灯されお勤めあり。正信偈・短念仏・廻向なり。土呂殿(三河 土呂本宗寺)調声なり。白袖・絹袈裟・木念珠・扇は持たずなり。

※1 「蓮能所」、蓮能といえば蓮如後室である蓮能尼、蓮如第4男越中伏木勝興寺蓮誓息男蓮能が該当するが、両者ともすでに死去している。しかも、大坂より以前の山科本願寺の時期である。ここでは、蓮能尼の隠居した実賢(称徳寺、後に慈敬寺)の後住の堅田慈敬寺実誓の山科寺内の「宿所」と想定される。

 

  • 2 円如、即男 得度し証如 実如 則孫 諸青蓮院得度)。大永元年に逝去(1520年)で、往生の際には、蓮能尼の晩年をともにした実賢(大永3=1523年 逝去)は生存しており、蓮能尼の隠居所=宿所を継承したと考えられるのは実賢と考えてよい。したがって、蓮能尼・円如の逝去の際に使用された「代々の臨終仏の写し」の阿弥陀像は、実賢の跡である堅田(称徳慈を改め)慈敬寺実誓のところで保管されていた可能性が高い。2本の「代々の臨終仏」・「写しの代々の臨終仏」の写しが存在したことが知られ、宗主の逝去にの際は「代々の臨終仏」が本尊として懸けられたことが判明する。
  •  
  • 3 「実如上人闍維中陰録」に記録された「臨終の床」と荘厳・勤行の様子である。臨終儀礼(死の作法)については、類例を紹介した後に論じ、ここでは事例の掲出にとどめる。「実如上人闍維中陰録」を作成したのは、大和飯貝本善寺実孝である。蓮如の第11男であり、本願寺に常住したと考えられる一門衆であり、蓮淳・実従らと証如期の大坂本願寺を支えた。

 

〇 次回は、門徒の臨終儀礼・死の作法を少ない資料から検討してみたい。

真宗葬送儀礼の淵源と成立 -蓮如期における「素型」の成立ー

 蓮如期の葬送儀礼 ―「葬中陰録」の世界―

 

 戦国期・近世教団、多数の葬送・中陰・年回・婚礼・誕生などに関わる「儀礼」を記録している・その中で「葬中陰記」・「往生之記」と呼ばれる葬送・中陰に関する記録が100点以上が確認されている。(首藤善樹本願寺諸事記目録稿」(高田短期大学紀要』№5 1987)

 

 ここでは、中陰録で最も詳しいと目される『真宗史料集成』第2巻で紹介されている分と、「実従葬中陰録」(願得寺実悟 記録、ただし未公刊・龍谷大学大宮図書館所蔵)と、証如「天文日記」・実従「私心記」より再構成した戦国期本願寺教団の一門衆の葬送儀礼を(中陰・納骨まで)時系列で紹介する。

 

 Ⓐ 1日目 臨終の際には、寝所に「臨終仏」(金襴・絵像)が掛けられ、前卓は「三具足」(樒を立て、蝋燭は白色)

臨終仏は、中陰中に「寿像」(影像)が完成した際に掛け替えられ、寿像が加わった中陰壇となる。

 Ⓑ 2日目 沐浴(湯灌)・剃頭を行う。

(※ 大坂本願寺「寺内」の場合は「御堂衆」が本寺より遣わされて剃頭している。門徒や臨終を覚悟し「入道」、女房衆が住持の死去にあたり「後家尼」、女房衆が臨終にあたり剃頭し法体となる場合(形式的には、「臨終出家」)も「御堂衆」が遣わされている。

Ⓒ 装束を、白衣(白帷)・直綴・五條袈裟・木念珠に改める。頭北面西で寝所おいて臨終勤行。畳を敷いて、上に「莚」を敷き遺体を安置する。(臨終勤行以前の寝具については不明。臨終勤行の前は、日常に使用している寝具か?)枕は「石枕」。顔には白布を二重折にて掛ける。

臨終勤行は、「正信偈(早引)・念仏(百反、七十反など)・回向、和讃(「弘誓チカラヲカフラスハ」・「娑婆永劫ノ苦ヲステテ」を引く。)(ただし、自坊=本堂での勤行は通常通りに行っている。)

Ⓓ 納棺、座棺で結跏趺坐させる。(棺の蓋の上には草書の名号=棺蓋名号=六字・八字・十字の三行)。蓋は紙を周囲に貼って封をする。

棺の上には七條袈裟。(畳んだままか、広げて掛けるのかは、実従の段階では不定であった。その際、蓮如の代から広げていたということで以後は広げる?。)

Ⓔ 3日目 葬送(出棺)。棺を御堂に移す。(御堂、上壇の際に畳を敷いて棺を置く。)前夜より本尊・開山御影の前机は、花足・打敷・本尊・御影の前に蝋燭を立てる。

 出棺(葬送)勤行。十四行偈・短念仏(50反)。調聲人と鈴は御堂衆より。

 Ⓕ 輿を下(外)陣の敷居の縁。勤行終了後に輿に入れる。輿に肩を入れる人数は4~10人程度。(近親者)

 Ⓖ 葬列。(輿カキは6人、寺中の非坊主衆・直綴・布帯・髪を後ろに括る。袈裟は掛けず、白袴を着用。輿の前は坊主衆、後ろは「色を着する衆(非坊主衆)」。

御堂より前庭へ出て、門から町へ、町場の道中には蝋燭が立てられる。(30丁~38丁)。先頭と後尾は提灯(4丁)。松明(火屋で使用・遺族2名)を先頭が持つ。(2人)

時(路)念仏。町蝋燭の最後のあたりで、火屋が近付いた所から、「時(路)念仏」を「サヽウ(作相)」にて始め葬(火葬)所まで勤める。調聲人・鈴は御堂衆(裳付衣・方織袈裟(鈴役は白袈裟)・水精念珠・銀箔扇)

Ⓗ 火屋の四方に蝋燭を立てる。火屋の前の「卓」の両脇に蝋燭2丁。打敷(萌黄緞子)・水引は白(絹)。花足12合・三具足・鈷銅・作花(紙花)・香合は黒。火屋には屋根と戸(扉)を造る。火屋の前には鳥居。(周囲に参列者のために、竹で作を作るというテキストもあり。)

Ⓘ 輿(棺)を火屋に入れ、七條袈裟を外し、遺族2人が松明で点火し戸を閉める。

火屋勤行。調聲人焼香・作相・正信偈(ゼヽ)正信偈の中程より焼香・短念仏(50反)・三重の念仏・和讃は「真実信心ウルヒトハ…」、寄讃は「恩徳広大釈迦如来…」・回向。

勤行後は帰路につく。火葬中は火屋より御堂へ戻る。(提灯・前卓等はそのままに帰る。)

 藁沓は鳥居のところで「脱ぐ」、「脱がず」の双方の記事あり。銀箔扇も「捨てる」・「捨てず」の記事がある。帰ってからの「勤行」はなし。

 Ⓙ 4日目 灰寄(棺の中には、抹香を下に敷き、脇へ入れ小藁を混ぜて入れる。近所には杉に青葉を灰に敷き、また、塩を少し物に入れ、酒も少し入れる。実悟が記録した「順興寺実従葬礼並中陰録」のみに記載。)

同日晩、収骨。首骨桶(白紙に「釈実従 永禄七年甲子六月朔日往生 行年六九歳」と書き出し添付。)墓所の四方へ蝋燭を立て、前机の脇にも蝋燭。前机は、打敷・三具足(花は櫁)。香炉と香合が前机には置かれるが、火はよく回るようにしておく。前机で収骨を行うが、収骨に使うのは竹と木を削った箸を用意し、箸に白紙で包んでも包まなくてもよい。火屋にはいる衆は、朝と同じように勤行を行い。ササウの際に調聲人が焼香し、正信偈の中途から参列者が焼香する。讃は「本願力ニ…」、寄讃は「無上涅槃ヲ証シテゾ…」、回向文である。尚、坊主衆は裏金剛を履いていく。

 

 Ⓚ 5日目  「中陰・納骨」

 

< 注記 『浄土真宗本願寺派 葬儀規範勤式集』。(編=法式調査研究委員会・勤式指導所、発行ー=浄土真宗本願寺派勤式指導所・本願寺出版部。 1986年初版、以後に随時に改訂版を発行。) ⇒ 素形となる戦国期の「葬中陰録」の記事との継承性と非継承性を検討する必要がある。>

 

(中陰・納骨の問題は別仕立てにするつもりである。墓制・骨の行方の問題)

真宗葬送儀礼の淵源と成立 -真宗以前と覚如期の葬送儀礼ー

2015年2月2日の福岡組法式研修会での配布レジュメ(その1)

 

1 共通の課題意識 ―本年までに確認した事項―

 

A インドにおける「素形」の成立(2013年2月)

 

 イ 紀元頃→ 「無常経」=葬儀に際して読経経典の撰述

7C末唐→ 義浄による訳出 則天武后の支援=後期唐社会の国家的事業化

 

 ロ 『南海寄帰内法傳』(義浄) 694年 スマトラ(シューリーヴィジャヤ=パレンバンより唐代仏教儀礼=儀軌を批判) ← 葬送儀礼も儒道習合の実態批判か?

  一七日・七七(四九日)の「喪中陰仏事」の紹介

  読経・塗香(燃香)・供物(供花)などの記述と紹介

 

 ハ 出家した僧尼への死者儀礼として「無常経」の読経・中陰仏事が形成

 

  注記1 看病・看死といった施設・修法との関係は不明

  注記2 部派(上座部)の多様な存在形態も含め、義浄の記述からは不明

(インド南部 ナーランダー寺院へ20年以上滞在し留学)

 

B 中国=家仏教徒の「葬送儀礼」への応用

 

イ 『無常経』の訳出と中陰仏事の意図

 

儒教式の葬送儀礼、あるいは服喪規定(期日・期間)が一般化した唐社会での、「無常経」を依用した「葬儀・中陰」が本来の「儀範」であるという提案と運動

 

  • 注記 ただし、「無常経」による葬送儀礼は出家者(僧尼)に限定という課題

 

 

 ロ 仏教徒=在家者の「葬送儀礼」開発が「晩唐・宋代仏教」の課題

 

 在家葬法成立の背景=「居士仏教」の隆盛による在家仏教徒の増加への対応

 出家者として死去した在家仏教徒を扱い、出家者として「遺体」を扱う

 「没後作僧」(引導・作僧・授戒儀礼を葬儀の前か中途に行う)の形成

 「没後作僧」、各宗の儀軌に応用して「引導・没後出家・没後作僧・没後授戒・・・」といった様々な呼称となるが、出発=起源は宋代仏教(禅・念を中心として中国天台の「居士仏教」)

  • 出家者(僧尼)は「尊宿葬法」→ もとより出家・仏弟子ということになるから、「尊宿葬法」(尊い仏性が宿った出家者・仏弟子の葬送儀礼という意味)

 

 

 ハ 「無常経」を依用した葬儀・中陰仏事は、その成立の背景として葬送儀礼が死者儀礼=死去した人間とどの様に向合うかという立場から形成したものと判断してよい

 

2 真宗以前 -真宗葬送儀礼との関わりから-

 

ダブル(僧俗)・スタンダードで、かつ集団(禅・浄土・密教)それぞれで度差がある葬送儀礼が展開

 

Ⓐ 尊宿葬法・亡僧葬法(在家葬法の導入、僧尼の葬法の確立も促す)

 

 義浄の「無常経」による葬送儀礼の紹介以降、インドから伝来した葬送儀礼は、僧尼を対象とするものであり、在家仏教徒の葬送儀礼は伝来しなかった、あるいは、存在しないと意識されていた。従って、義浄が行った仏式による葬送儀礼の普及運動は、出家者(僧尼)・寺院内に限定される限界を有していた。

 

Ⓑ さらに宋代(11世紀前後)になると、在家仏教徒(信者)に対する仏式の葬送儀礼を、出家者と同様の「無常経」を中心として執行する機運がたかまる。

 

 ㋑ 中国の民間葬送儀礼である「臨終方訣」の採用

 「臨終方訣」を臨終儀礼に導入し、僧尼の臨終儀礼と別ける。

 

 ㋺ 出家者の葬送儀礼との接合→ 没後作僧・尊宿葬法

 

 ㋺ 中唐(6から8世紀)から晩唐

 

 あ 天台(国家仏教)として唐国家の護持→ 「尊宿葬法と没後作僧」

 

 い 後期大乗として伝来した密教 「光明真言土砂加持」による追善

 → 土砂を加持し、病人・死者に対して加持・祈祷を行う

→埋葬地あるいは遺体(遺骨)に対し、光明真言誦加持した土砂で祈祷し、死者(亡者)の死後の得脱を加持する修法

→ 平安中期真言・南都仏教を中心に展開・隆盛

 

<確認 その2>

 出家儀礼として在家仏教徒の葬送儀礼を考案、死後の「出家儀礼(法名・剃髪=剃頭・沐浴・直綴・袈裟等を執行)⇒ 死後出家である「没後作僧」(引導儀礼)の成立

 

Ⓒ 「臨終方訣」の仏説化と「没後作僧」の成立

 -出家葬法を応用して、宋代までに在家葬法の成立―

 

晩唐・宋代の葬送儀礼の日本への影響→ 「無常経」による「葬儀」と中陰(七七日) 

1  遣唐使の留学僧(年分度者である国家的扶持を受ける官僧 南都仏教)から、天台・真言に至るまで、

 

※2 所与の条件として「死者(亡者)儀礼」のための「尊宿葬法・没後作僧」という葬送儀礼が形成された

 

<参考 同時期の「死の作法」との関連>

 

※1 善導に代表される「往生浄土」を「死の作法」「臨終儀礼」(死=往生の迎え方の作法・所作)

 

 ※2 埋葬(死後)・追善供養として展開した葬送儀礼(光明真言土砂加持)

 

※3 義浄の「訳経」→鳩摩羅什玄奘ほどの訳経僧としての支持を受けなかった

 → 則天武后(即武天)に内道場での囲い込(「神異」を祈願する国家祈祷経典)

 → 「儀軌」が中心(渡印の目的)であり、儀礼・組織の規則・軌範を学ぶ姿勢が大きい

 

4 蓮如以前の真宗葬送儀礼

覚如・存覚期の葬送儀礼の属性

 

 浄土真宗の葬送儀礼の原型は、蓮如期に形成し、「作僧(作相)」と正信偈の読誦・読誦中の焼香を基本としていた。(「臨終・葬送・納骨」『戦国期真宗の歴史像』1992年 永田文昌堂)さらに、その素形を遡れば、覚如(『慕帰絵詞』)の「死の作法」にみてとれる。

 覚如蓮如期の真宗の葬送儀礼を検討して興味深いことは、真宗は天台浄土教の葬送儀礼を雛型とするのではなく、禅の「没後作僧」を雛型に簡略化して形成したものと推定できることである。

 

㋑ 覚如『改邪抄』と「没後作僧」批判

 覚如は、法然門下(逆修・五重相伝)の臨終儀礼の執行による「浄土往生」を保障する動向を批判。

 

史料A 1 覚如の「青道心=入道」批判

一 優婆塞・優婆夷の形体たりながら出家のごとく、しひて法名をもちゐるいはれなき事。

本願の文に、すでに「十方衆生」のことばあり。宗家(善導)の御釈(玄義分)に、また「道俗時衆」と等あり。釈尊四部の遺弟に、道の二種は比丘・比丘尼、俗の二種は優婆塞・優婆夷なれば、俗の二種も仏弟子のがはに入れる条、勿論なり。なかんづくに、不思議の仏智をたもつ道俗の四種、通途の凡体においては、しばらくさしおく。仏願力の不思議をもつて無善造悪の凡夫を摂取不捨したまふときは、道の二種はいみじく、俗の二種が往生の位不足なるべきにあらず。その進道の階次をいふとき、ただおなじ座席なり。しかるうへは、かならずしも俗の二種をしりぞけて道の二種をすすましむべきにあらざるところに、女形・俗形たりながら法名をもちゐる条、本形としては往生浄土の器ものにきらはれたるに似たり。ただ男女・善悪の凡夫をはたらかさぬ本形にて、本願の不思議をもつて生るべからざるものを生れさせたればこそ、超世の願ともなづけ、横超の直道ともきこえはんべれ。この一段、ことに曾祖師[源空]ならびに祖師[親鸞]以来、伝授相承の眼目たり。あへて聊爾に処すべからざるものなり。

 

史料A 2 覚如の「没後作僧」批判

 一当流の門人と号する輩、祖師、先徳、報恩謝徳の集会のみぎりにありて、往生浄土の信心においてはその沙汰におよばず、没後葬礼をもつて本とすべきやうに衆議評定する、いはれなき事。

右、聖道門について密教所談の「父母所生身速証大覚位」(菩提心論)と等いへるほかは、浄刹に往詣するも苦域に堕在するも、心の一法なり。まつたく五蘊所成の肉身をもつて凡夫速疾に浄刹の台にのぼるとは談ぜず。他宗の性相に異する自宗の廃立、これをもつて規とす。しかるに往生の信心の沙汰をば手がけもせずして、没後葬礼の助成扶持の一段を当流の肝要とするやうに談合するによりて、祖師の御己証もあらはれず、道俗・男女、往生浄土のみちをもしらず、ただ世間浅近の無常講とかやのやうに諸人おもひなすこと、こころうきことなり。かつは本師聖人の仰せにいはく、「それがし閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし」と云云。これすなはちこの肉身を軽んじて仏法の信心を本とすべきよしをあらはしましますゆゑなり。これをもつておもふに、いよいよ喪葬を一大事とすべきにあらず、もつとも停止すべし。

 

㋺ 『慕帰絵詞』にみる葬送儀礼

史料A 4『慕帰絵詞』(従覚〈慈俊〉 覚如次子)

観応二載 辛卯 正月十七日の晩より、聯か不例とて心神を労わくし侍れば、ただ白地〈あからさま〉におもいなずらえ、天下の騒ぎもいまだおちいぬほどなれば、医療を訪るべき時分もなきに、十八日の朝よりなおおもりたる景気なるに、世事はいまより口にものいわざれども、念仏ばかりはたえずいきのしたにぞきこゆる。さりながら身をはなれぬ僧のむかえるに、この二首をかたりける、

 南無阿弥陀仏力ならぬ 法ぞなき たもつ心も われとおこらず

 八十地あまり おくりむかえて 此春の 花にさきだつ 身ぞ哀れなる

おもいつけたる数奇にて、最後までもよわよわしき心地に、一両首をつづけるよと、安心のむねも、今更とうとくおぼゆる中に、花のなさけを猶わすれずや、誠に哀れにぞ覚える。

 凡そこのたびは今生のはてなるべし。あえて療医の沙汰あるべからずと示せども、さてしもあるべきならねば、あくる十九日の払暁に医師を召請するに脈送(脈道)も存の外にや、指下にもあたりけん。なむるところの良薬も験なく侍れば、面々ただあきれはてて瞻仰ぐより外の事ぞなき。

ついに酉の刻の末程に、頭を北にし面を西にし、眠るがごとくして滅を唱えるぞ心うき。つらつら頓卒の儀をおもうに、縡の楚忽なる有待のさかいとはいいながら、今更不定のならいにまよい侍れば、常随給仕の僧侶、別離悲歎の男女、喩をとるにものあらんや。釈迦如来涅槃の庭には、禽獣虫類までも啼哭したてまつりけり。大和尚位円寂の砌には、上下士女までも、傷嗟することかぎりなし。さても不思議を現せしは、発病の日より終焉の時に至るまで、始中終三箇日が程、蒼天を望むに紫雲を拝するよし、所々より告げしめす。そもそも三日彩雲の旧蹤をたずぬるに、いにしえ高祖聖人の芳躅にかない、今は先師霊魂の奇特をあらわす、これなり。

 事切れぬれども、つきせぬ名残といい、かわらぬ姿をもみんとて、両三日は殯送の儀をもいそがねども、かくてもあるべきかとて、第五箇日の暁、知恩院の沙汰として、彼寺の長老僧衆をたなびき迎いとりて、延仁寺にしてむなしき烟となしけるは、あわれなりし事のなかにも、二十四日は遺骸を拾えりしに、葬する所の白骨一一に玉と成りて、仏舎利のごとく五色に分衛す。これをみる人は、親疎ともに渇迎して信伏し、これを聞く人は、都鄙みな乞い取りて安置す。まのあたり此の神変にあえるは、嘆の中の悦びともいいつべく、迷の前の益ともいいつべし。

 

  • 『慕帰絵詞』にみる覚如の臨終・葬送

 

 

 Ⓐ 臨終仏(阿弥陀絵像・三具足) ◎ ただし、山田雅教は「善導像」と指摘?

 Ⓑ 頭北面西(直綴・五條袈裟)

 Ⓒ 鳥辺野での荼毘(「輿」の葬列と火葬の図)

 

㋩ 存覚「最須敬重絵詞」による補綴

史料A ④ 『最須敬重絵詞』(存覚) 巻7第27

 命終ちかきにありとて、口に余言をまじえず、ただ仏号を称念し、こころ他念にわたらず、ひとえに仏恩を念報し給う。かくてその夜あけにければ、看病の人々相談し、医師を招きて病相をみたてまつらしめ、随分の療養をもくわえたてまつらんと申し合わせられけるを、病者聞き給いてゆめゆめその儀あるべからず、命は定業かぎりあれば、薬をもって延ぶべからず。たといその術ありとも、わがもとむる所にあらず。岸上のちかづくことをまつ、病は苦痛の身をせむるなければ、何の療治をかとぶらわん。たとい又そのくるしみありとも、いく程かあらん。刹那にすつべき穢土の業報なりとて、かたく制したまいければ、ちからなく、その沙汰をもやめられけり。称名のたえまに、傍なる人にしめして、二首の歌をぞ、かかせられける。

  南無阿弥陀 仏力ならぬのりぞなき たもつこころも われとおこらず

  八十あまり おくりむかてえて この春の 華にさきだつ 身ぞあわれなる

 一首は、朝夕に思い付き給いし和語の風情によせて、日来決得し給える他力の安心をあらわされたり。三十一字の藻詞たりといえども、おそらくは四十八願の簡要とも、いいつべきものをや。一首は春の節をむかえても、なお華の比まであるまじき、あだなる身のほどをおもいしりたまえることのは、いとあわれにや、又やさしくもきこゆ。

 さてこよいもあけぬれば十九日なり。さるにても病の軽重も、いのちの延促も、人々おぼつかなく、おもいたてまつられければ、病体にはかくとも申さで、ひそかに医師を招請して、みたてまつらしめられけるが、たのみなき御有様なり。よもひさしき御事はあらじと申し出でにけり。されども、くすしは何とか申しつるとも、たずねらるる事なし。いきの下に、ことばをいたしたまう事とては念仏ばかりなり。其の日も程なくくれ、酉の剋におよびて、斜陽すでにやまのはにかかり、晩風かすかに庭の梢におとずるる程、とおくは大覚世尊入涅槃の儀式をまもり、ちかくは両祖聖人入滅の作法に順じて、頭北面西右脇にふし、意念口称かわるがわるあいたすけて、相続称名の息ひとたびとどまり、本尊膽仰のまなこ、ながく閉じたまいにけり。 寿算をたもち給うことは、すでに八十二、ついにあるべき別れとは知りながら、病牀にふし給うことは、わずかに三箇日、時に臨みては、取り敢えぬ悲しみなり。智灯ながく消えぬ。誰に向かいてか、遺弟愚痴の昏迷をてらさし、法水たちまちにかわきぬ。何をもちてか末世群萠の道芽をうるおさん。ただ忍土永離の涙をおさえて、ひとえに浄刹再会の縁を、期するばかりなり。

 

 規格外のの資料・図像

 

存覚の達

  • 常楽寺本「看病講式」(良忠)の存在⇒ 慈観(存覚息・木辺・錦織寺開基) 

 

「臨終正念」(念仏=称名は準備・修行)と、「平生業成」のあいだ

真宗以前 ー中世貴族社会の死の作法と葬送儀礼

<お断りとお詫び>

臨終・葬送・埋葬

 看病・看死・臨終…から、死者の送り儀礼(葬送)…、遺体の埋葬(遺体・骨の行方)…、それぞれの儀礼の日本的展開を前提に真宗以前ということで考察するつもりであった。正直言って、真宗以前は難しい。歴史研究、宗教・民俗研究、それなりの蓄積はあるが「現代」から見て、という視点はない。研究者にとっては当然であるが、実務に携わる僧侶にとって一番にしりたいことが伝わらない。

 恩師筋からは、「だから、遠藤さん、実践がらみの研究はアカン…」と諭されそうである。再考するつもりで、これまでの予備ノートをあげておく。すみません…。

 

 1 東アジア・中国仏教における葬送儀礼ダブル・スタンダード

 

 A 「尊宿葬法」と「没後儀礼

大づかみな言い方であるが、中国仏教の葬送儀礼形成を唐代義浄の「無常経」の訳出が大きな契機であるといえそうである。

 

「無常経」以後、唐末から宋代にかけて、

 

ⅰ 「禅苑清規」と尊宿葬法 -出家者の葬送儀礼から―

 

 宋代(11世紀前後)になると、在家仏教徒(信者)に対する仏式の葬送儀礼を、出家者と同様の「無常経」を中心として執行する機運がたかまる。

 

 ㋑ 中国の民間葬送儀礼である「臨終方訣」の採用

 

 「臨終方訣」を臨終儀礼に導入し、僧尼の臨終儀礼と別ける。

 

 ㋺ 出家者の葬送儀礼との接合

 

 出家儀礼として在家仏教徒の葬送儀礼を考案、死後の「出家儀礼」(法名・剃髪=剃頭・沐浴・直綴・袈裟等を執行)⇒ 死後出家である「没後作僧」(引導儀礼)の成立

 

 ⅱ 「臨終方訣」の仏説化と「没後作僧」の成立 -在家葬法の成立―

 

 死後出家という死者を僧尼に見立てての葬送儀礼の誕生

 

 

2 真宗以前

  • 貴族社会の死の作法と葬送

 

    1.  
  • 日本における葬送儀礼の展開

 ⅰ 良源の「九品往生義」 ※ 迎講・臨終来迎

源信『往生要集』 

 

 ⅱ 真言密教の「土砂加持」

   埋葬地での後生善処の死後作法(死後供養)

 

 ⅲ 埋葬地=慕・供養塔の建立

   埋葬地の聖域化の付随儀礼から出発